2009/3/15 日曜日

異文化を理解する近道として、価値観をできるだけ中立に。そして寛容。

カテゴリー: おもてなし, お国事情, 文化の違い, 気質・性格 — admin @ 11:40:24

トヨタ2000GTという往年の「名車」があります。WebCGでモータージャーナリストの熊倉重春氏が語るのは、東京オリンピックのわずか3年後、日本がこれから高度経済成長を果たそうという時代に、大卒サラリーマンの初任給がせいぜい2万円だったのに238万円(今の価値で言えば2000万円以上)もしたこの超高級車=スーパーカーが、いかにすごい車であったかという話です。

いや本当に、すごい車でした。なにしろ、ほとんどの人が買えなかったんですから。買えないのが当たり前で、買えたのは、ごくごく一部の大金持ちのうちの、さらにごくごく一部の自動車好きだけだったのです。

トヨタは今ではレクサスという高級車ブランドを育てようとしていますが、私たちが、自分の価値観をできるだけ中立に保つために是非自覚したいのは、それは「メーカーがブランドを育てた」という点です。決して一般大衆主導の話ではなくて、あくまでもメーカー主導の話だということですね。

よく聞かれる悪い表現で言えば、「消費者はメーカーに踊らされるもの」という言い方になります。

現代に至るまでの結果だけを見れば、日本はアメリカに次いで世界第二位の経済大国になりました。世界中に経済援助をしています。さらにアメリカ国債を大量に引き受けてアメリカ経済まで支えています。それには、私たちが「踊らされた消費者」であったからこそ為しえたことだった、とも見ることができるわけです。ですから、「メーカー主導で消費者が踊らされてきた」ことを簡単に批判したり否定したりはできません。

しかしそれと同時に、私たちがメーカー主導で植え付けられてきた「消費文化の価値観」を、他国へ無差別に伝道していいという話でもないでしょう。けれども実際は、日本が作り続けてきた大量の自動車やカメラ、家電製品などは、近隣諸国をはじめとして世界中の発展途上国に、「消費の美徳」として伝道されてきています。お隣の韓国でも、日本のメーカーをしのぐ巨大な自動車メーカーや家電メーカーが世界シェアを広げてきましたし、台湾や中国へも、そうした価値観が広まり、根付いています。こうした傾向は、世界中の当たり前となっているわけです。

もちろん、それに抵抗しようとしている国々もないわけではありません。大量消費を良しとする価値観は、アメリカなどがその根本ですから、反米思想に凝り固まった国々では、アメリカ的な価値観への抵抗が敵愾心となり、自分たち本来の価値観をいっそう強調しようとします。その代表が、イスラム過激派です。

アルカイーダのテロなどは、世界の脅威となっていますが、イスラム過激派が敵と見なしているのは、アメリカそのものだけでなく、アメリカ式の消費文化と、その価値観に浸食されて高級車などをありがたがっているアラブ諸国のあり方でしょう。

言うまでもなく、イスラム教徒全体が過激派ではありませんし、それどころか、インドネシアからアフリカ大陸まで、世界を広く覆うイスラム諸国を見渡せば、穏健派の方が多いのが実情です。しかしながら、イスラム諸国における過激派の扱いという葛藤の一因として、アメリカ式消費文化による浸食が存在するのは間違いなさそうです。

理想的な世界のあり方というのがもしあったとすれば、大量消費を良しとするアメリカ的な価値観は、なるべく世界に広めるべきではなく、できればアメリカと西欧、そして日本程度にとどめておくべきだったということもいえるのかもしれませんね。

それがどうしてこんなに世界中に広まってしまったかといえば、アメリカ人や日本人が、なんの疑いもなく、大量消費は人類全体に良いことだと信じ込んでいたためだったのではないでしょうか。

このような「一方による信じ込み」が、必ずしも世界に幸福をもたらさないというのが事実だろうと思います。「一方による信じ込み」は、むしろ世界に葛藤と摩擦をもたらす危険もあって、それが現実に、イスラム過激派によるテロなどの原因になっているのです。

さらにいえば、そうした葛藤や摩擦は、必ずしもイスラム過激派だけの問題ではありません。穏健派のイスラム教徒にとっても、自分の価値観をどう保つべきかという葛藤によって、心を揺るがされる問題になっているはずですし、今まさに大量消費に突き進んでいる中国の国内でも、日本ではありえないような大きな格差をもたらしています。富めるのは上海などの沿海都市部ばかりで、貧しい人々はまだ十億人以上存在しています。

ではみんなが豊かになれば解決するのかといえば、それも決してそうとは言えないのではないでしょうか。現実として、私たち日本人自身にも葛藤はあるはずですし、アメリカ人自身ですら揺れています。たとえば、超高級車を所有して乗り回すことは、誰もに共有される価値だとは決して言えないからです。

それは別に、時代が環境問題に主導されるようになったからではありません。「環境主義」という新しい価値観が生まれたら生まれたで、そこでもまた、世界に共有されるとは限らない、大国主導の一方的な価値観が振りかざされることに変わりはないのです。

価値観を中立にしたいというのは、世界の人々の価値観がなにを一番としているか、それは国によって、個人によって、一概には判断できないからです。異文化の人々と対話していこうとするなら、まず自分の「信じ込んでいる価値」というものを振りかざさないことが重要になってくるはずです。

筆者はイスラム教徒の人々ともお付き合いをしてきておりますが、彼らから、「あなたはなぜお祈りをしないのですか?」などと質問されたことはありません。「神を信じますか?」と聞かれたこともありません。また、神を信じている様子もなく、お祈りももちろんしない筆者に対して、彼らが軽蔑の目を向けてきたこともありません。それは彼らが筆者を敵と見なしていなかったためでしょう。

同じように、アメリカ的な価値観を信じ込む私たちも、もし相手を敵とは見なさないのであれば、アメリカ的価値観を信じ込んではいない人々に対して、自分が所有している車を自慢したり、カメラやパソコンを自慢したりはできないはずです。ましてや相手の身なりに言いしれぬ違和感をおぼえたときでも、それをそのまま顔の表情に表すなどといったことはできません。

宗教的な価値観や、生活文化に関わる価値観というものは、このように、相手に無自覚でぶつけて良いものでは決してありません。それは、私たちが共有するべき、もっと大事な価値というものがあるからです。それは他でもなく、「共存したい」と願うことです。親が子を育てるという基本的な姿は世界共通のものです。それを核にして、その延長として、隣人愛や、寛容があるはずです。思えばこの「寛容」という価値観こそが、異文化との共存を目指して苦難の道を歩んできた国々がたどり着いた、大いなる智慧なのではないでしょうか。

私たちの日本には、まだそうした経験がほとんどありません。経験がないために、「寛容」という言葉も、普段の生活ではほとんど聞きません。「寛容」は、許し合いの社会を実現しますが、日本社会はどちらかといえば、監視し合う社会です。人と違うことをする人がいればまず警戒するのが日本社会です。そのおかげで、世界一治安が良かったりするわけですから、日本社会のこれまでのあり方を全面的に否定することなどできませんけれども、もし「寛容」ということも、加えることができれば、日本という私たちの国は、海外からのお客様にとって、より良い訪問国となることもできるのではないでしょうか。

2009/2/9 月曜日

Made in Japan

カテゴリー: 文化の違い, 経済危機 — admin @ 6:46:50

30年以上も昔のこと、高校の英語研修でカナダとアメリカへ行きました。初めての飛行機、初めての海外で、同級生全員、興奮していました。

当時はまだ日本製品といえば、安かろう悪かろうの時代ですから、ほんのちょっとの小遣いからどんな記念品を買って帰ろうかと、アメリカ製やカナダ製に目を輝かせたものでした。日本のサラリーマンが月給10万円で、アメリカは20万円といわれたころのことでもあります。

結局私が買ったのは、スーパーマンのTシャツでした。胸に「S」のマークが入った青いTシャツでしたが、クリストファー・リーブの映画『スーパーマ ン』よりもずっとずっと前の時代でしたから、テレビ番組でジョージ・リーブスが演じたスーパーマンのマークです。今となっては骨董品ですが、当時はそれで も本物みたいなマークだったわけです。

仲の良かった友人のひとりは、「Vancouver(バンクーバー)」と英字の入った帽子を買ったんですが、買ってから気付いたのが「MADE IN JAPAN」の製品表示です。もちろん、日本で売っている製品ではありませんから、記念品には違いないわけですが、彼はひどくがっかりしていました。

あれから30年以上経った今の時代でも、これとまったく同じことが起きています。というのは、日本にはるばるやってくる中国人観光客のことです。

せっかく日本まで来たんだから、なにか素敵な日本製品を買って帰ろうと思うのが旅人の人情ですが、買ってしまってから「MADE IN CHINA」の表示に気付くということがけっこう多いようですね。

そんな事情に諦めた中国人観光客もいるようで、日本に来たからといって特に買うべきものはない、とまで言う人もあるようです。

もちろん、そんなところにこそビジネスチャンスがあるわけですから、中国人が欲しくなるような製品を作って成功する機会が、大メーカー、中小メーカー、個人商店ともに、対等に与えられていると考えることができます。

中国の人々、韓国や台湾の人々が、どんなものに興味を示すか、これをしっかり考えて、大当たりを取ることができれば、日本人も日本本位でない、周辺諸国の人々の気持ちが少しでもわかってきたということになるのではないでしょうか。

2009/1/24 土曜日

サフランの香り

カテゴリー: 文化の違い — admin @ 12:06:50

アメリカやヨーロッパに行ったことのある人は経験があると思いますが、人々に匂いがあって、日本ではない、外国の空気だと実感します。匂いは主に体臭だと思われますが、体臭は食べているものによっても違ってくるようで、またそれを隠そうとするための香水・コロンによっていっそう日本との違いが際だって感じられます。

筆者の家にはこれまでに、台湾人(筆者の子供たちも半分は台湾人の血統ですが) 、中国人、インド人、イギリス人、韓国人、バングラデシュ人、ベトナム人、タイ人、フランス人、フィリピン人、ドイツ人、アメリカ人などが訪れており、中にはしばらく泊まってくれた人たちもいます。

日本人のお客さんが来るときももちろんそうなんですが、いつも心配になるのは我が家は臭くないだろうかということですね。

「臭くないですか?」

と、直接聞いたことはほとんどないんですが、基本的に「きっと臭いはずだ」と思うことにしています。

特に飛行機で遠くからはるばる来てくれたイギリス人の年配者がふたり、ちょうど1週間ぐらい泊まっていってくれた時には、おそらく我が家の匂いは強烈だったんじゃないかと想像しています。彼らのうちひとりはもはや筆者の親友でもあって、長年にわたってメールなどで(英語で)連絡を取り続けていますが、なかなかその点について聞いてみる勇気はありません。

なぜ強烈だったろうと思えるかといえば、彼は自分の泊まっていた部屋にコロンをいっぱいまいてすごい匂いにしてくれたということがひとつ。もうひとりの人は部屋にコロンなどまきませんでしたが、我が家に滞在中は不眠に悩んでいました。いろんな音がするからとは言っていましたが、匂いもあったはずです。

筆者が海外で臭かったところといえば、台湾の屋台料理などもすごいのがありますが、筆頭は延べ3か月ほどいたことのあるフランスのパリで、メトロ(地下鉄)(のパレロワイヤル駅だったかと思いますが)などは下水の匂いが充満していてたまりませんでした。やはり排泄物の匂いはこたえます。パリではほかにも臭いところがけっこうありまして、パリジャン・パリジェンヌたちというのは、こんな匂いの中で暮らしているのかと思ったものです。

もっとも長期にわたって滞在した「ホテル」は、リュクサンブール公園近くの安宿で、長逗留の人向けの下宿屋みたいなところでしたが、1泊わずか25フラン(当時700円ぐらい)のその部屋が幸運にも空いて住み始めた当初は、なんだか変な匂いだなあと思いました。なんの匂いなのか、それは皆目わかりませんでした。

日本で嗅いだことのない匂いというのは、どうやら主に食べ物に原因があるのではないでしょうか。海外から来た人たちからも、日本の魚や味噌の匂いがだめという人は少なくないようですが、例えば台湾なら、香辛料の八角や、香菜(コリアンダー)の匂いが気持ち悪いという日本人も少なくありません。

日ごろよく食べている食品が発する匂いは、家庭の台所の匂いになります。またそれは、排泄物やおならの匂い、そして体臭にも関係がありそうです。もちろん、そうした匂いにならない食品もあるでしょうけれども、しっかり匂いに反映される食品もあるからです。

昨夜は久しぶりにタジンを作って食べました。タジンというのは北アフリカ地中海と大西洋沿岸のモロッコ王国の定番料理で、筆者がかつて1か月ほど滞在したときに、すっかりその虜になってしまった世界的においしい料理です。

タジンを簡単に紹介しますと、たっぷりのオリーブオイルで炒めた肉(羊肉や子牛肉、鶏肉などのいずれか)を、じゃがいもやナスなどの野菜とともにトマトで煮込んだものです。味付けは肉を炒めるときの塩コショーで、煮込むときにサフランを使います。

サフランというのは、ごく微量でもびっくりするぐらい値段の高い香辛料で、日本ではスペイン料理のパエリアなどに使われます。黄色く鮮やかに色のついたサフランライスでご存じの方も多いでしょう。

昨夜は一番安い鶏のもも肉を使いましたので、材料のうちで一番お金がかかったのがサフランでした。1グラムも入っていないような分量の1ビンで、千円近くします。 その1ビンを全部使って、かなり大量のタジンを作ったんですが、これがすごい香りを発します。

普段は魚や味噌の匂いがメインの我が家の台所が、まるで遠い外国のような匂いになりました。まだたくさん残っていますので、一晩経ったらそれが家中に充満しています。また、サフランの薬効作用でおならがよく出るんですが、なんだかそれまでもサフランの匂いがするようです。

サフランは極めて芳香ですから、排泄物にサフランの香りがつくならけっこうなことかもしれませんが、これを普段の和食以上に頻繁に使うようになれば、我が家は日本の匂いではなくなってしまうこと、間違いありません。そしてさらに、我が家全員の体臭までもが変わってしまうことでしょう。

外国人の匂いというものも、きっとこのような原因があると思います。そしてそれは私たち日本人の匂いについても同様です。

隣にインド人やバングラデシュ人が住んでいる日本人から、匂いがきつくてたまらないという苦情もあるようですが、食べ物が違えば家全体が異様な匂いになるわけです。インド人やバングラデシュ人にとっては、日本の味噌などの匂いはとてもきつくて、なかなか我慢できないということもあるようですから、日本人と隣り合わせたら、お互いに匂いと匂いで火花が散るでしょう。

サフランについては、ウィキペディアに詳しい説明があります。多量に摂取すると死ぬこともあるそうですから、使用量は控えめにするのが良いようです。

→ ウィキペディア「サフラン」

2009/1/10 土曜日

思想の違いについて。

カテゴリー: 文化の違い — admin @ 19:31:04

政治思想による対立といえば、かつての東西冷戦ですが、現在の南北韓国の対立も、そもそもは政治的な対立であり、政治的な支配権が二手に分かれての 対立でした。今では単に北朝鮮(北韓国)の、政権というより王朝とでも呼ぶべき世襲制の独裁政権が、韓国や米国のみならず世界の多くを敵に回してまで頑な にその姿勢を改めようとしないことで対立が続いています。韓国の側としてみたら、言語や文化を共有する同じ民族ということでいくらでも親近感が持てるんで すが、北朝鮮の独裁政権がそれを許しません。韓国は民主国家としていつでも北朝鮮との対話を歓迎する用意があるわけです。

民主主義が当たり前の世の中に暮らしておりますと、なにが悪いといって、民意を無視したり民意と対立したりする政治が悪いのは明らかであると誰でも知っています。

ではどうしてそのような対立が起きてしまうのか、簡単に結論をいえば、それは思想であるということになります。

かつての日本も、帝国主義という思想に支配され、万世一系の皇室伝統を神聖で冒してならないもの、絶対的なものという思想をなによりも大事にしておりました。ここにも周辺諸国との対立の大きな原因を抱えていたわけです。

現代でも皇室を大事にすることは国民の総意となっておりますが、これをもって諸外国から訪れる要人に対して、天皇陛下が一番偉くて、外国の元首や大 統領はそれと対等ではない、それ以下だ、というような思想をもって外交をやっていたら、日本は世界中から嫌われてしまいます。ですから、とにかくそんな 「思想」は決して表に出さないことというのが重要になってきます。

中東では、年末からガザ地区へのイスラエル軍の侵攻とハマスの抗戦が続いています。イスラエル軍というのは、パレスチナ人であれば女性や子供でも殺 すんだそうで、それに対抗するためにパレスチナの女性がお腹に爆弾を巻いてイスラエルのバスを爆破するという、かつての神風特攻隊のような自爆攻撃をやっ ています。今のハマスはロケット弾を撃ち込んでいるそうですが、そのような自爆攻撃は「テロ」とされ、アメリカのブッシュ政権などもパレスチナを非難して イスラエルによる女性や子供の殺戮は養護してきました。

いよいよ今月20日からオバマ政権が始まりますが、まさかブッシュ同様にイスラエルを一方的に支持するといった態度は取らないだろうと世界が期待を寄せています。

ともかく、こうしたイスラエルとアラブ諸国の対立も、思想の対立です。ただし東西冷戦のような政治思想の対立ではなくて、宗教思想の対立ですね。

古い方から見れば、まずユダヤ教という宗教があります。ユダヤ教は旧約聖書の内容で理解することができますが、語弊を恐れず要約すれば、イスラエルの民だけが神に選ばれた良い民であるという思想、ということになるでしょうか。

それに対してイスラム教というのは、ムハンマド(マホメット)という人が始めた宗教で、この人は自分の宗教思想を広めるために戦争をやってきた人で すね。イスラム教には穏健派の人たちも多く、必ずしも好戦的ということはないんですが、その宗教の源流を見る限り、自分たちの宗教的な立場を守るためには 異教徒を殺すことも辞さないという思想がはっきりと存在します。

ちょっと科学的な物言いを許してもらうなら、仮に神というものが存在するにしても、特定の個人を選んで神の代役や使者を務めさせるということを神がするものなのかどうなのかという疑問があります。

人間は誰でも不完全な存在であることに異論はありませんが、人間が不完全であるのなら、特定の誰かが周囲の人々から完全な存在と認められて神格化さ れるということもあるでしょう。宗教の興りには、そのような神懸かり的な人格が存在したということでもあるんだろうとは思います。しかし、人間は人間で あって、神様ではありません。神様ではない人間の言葉を記録して、これが神様の言葉だと考えたり、信じ込んだりすることがありますが、それこそが思想なん ですね。

思想が世界中で等しく共有されれば、それはそれで世界は平和に治まるのかもしれませんが、有史以来を見る限り、そのような例は一度としてありません。どんな思想でも必ず対立を生んできました。

人類共存の最大の敵というものがあるとして、それを一言でいうなら、対立そのものであるということもできますから、対立の原因を作り出す物事の全てが、人類の敵であったり、敵となりうるものであったりすると見ることに間違いはなさそうです。

そんなわけで、思想は常に対立の原因であり、共存に反する危険な代物でありうるというわけですね。

ですから、世界の人々と共存して暮らすために必要なこととはつまり、対立を避けること、共感を持ち、増やすことであるということになります。そのためには、特定の思想に固執したり、特定の思想や文化を排除したりすることだけは、なんとしても避けなければなりません。

日本と違って他民族、他文化共存で成り立っているアメリカ合衆国などには、そのあたりの経験と知恵がふんだんにありそうです。もっとも治安は日本の 方が良かったり、アメリカにもいまだに人種差別主義という思想が一部に残っていたりもするようですから、アメリカが完成された形であると見ることもできま せんが、きっとたくさんの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

2008/11/18 火曜日

違いを楽しみたいものです。

カテゴリー: 文化の違い — admin @ 0:58:51

麻生首相が、バラク・オバマ次期大統領と電話したんだそうで、その感想を麻生さんが「知的な英語を話す。」とか言ったそうですね。

黒人を評して「知的」ということは、アメリカでは即、差別発言になります。麻生さんはそれを知らなかったようで、ちょっと先の危ぶまれる発言だったわけですね。

オバマさんがアメリカ大統領に就任するのが来年の1月20日。それから先、麻生さんがいつまで総理大臣でいられるのかわかりませんが、本人は純粋に褒めたつもりでも、まったくの正反対に「差別した」と受け取られたら大変です。

真意は決して差別などではありません、そんなつもりは毛頭ございませんでしたと、本当の気持ちを伝えることができればそれで良いのかというと、そんな弁解をしないですむように、最初から発言に気をつけるのが一番良いことであるのに変わりはありません。

異国、異文化、との付き合いは、言語の違い、社会の違い、歴史的背景の違いなど、学ぼうと思ったら気が遠くなるようなたくさんの問題がありますから、トラブルを起こさないようにするのも大変です。

そんなにいろいろ知ってるわけがないから、外国人との付き合いなんて自分には無理、と、やる前からあきらめてしまうのも悲しいことですから、最低限どうしたらいいかを心得ておきたいものです。

まず何よりも、違うことを前提とすることでしょう。

違うことというのは、先に書きました通り、言語の違い、社会の違い、歴史的背景の違いなど、違うことだらけだということです。私たちは日常、日本人 どうしであれば、同じことを前提にした言動をとっています。日ごろ接する相手のほとんど全員が日本人ですから、日本人として当たり前のことをすべて前提と して行動し、発言しています。ところが外国の人が相手だと、その前提が通じないということです。

どんなことが日本の当たり前で、その当たり前が世界に通用する常識なのか、通用しない常識なのか、そういったことを学ぼうという姿勢がまず必要になるのではないでしょうか。つまり、私たち日本人が、日本人自身のことを学ぶということです。

例えば、誰かが待ってくれているとき、日本人なら小走りに走るなどして、相手を待たせようとはしていないんだという態度を見せます。これは日本人と して当たり前のマナーでもあります。ところがこのマナーを、外国の人に要求するのが無理なこともあります。こっちが待っているのに、悠然と歩いてくる外国 人がいたとき、私たち日本人は、その外国人が無礼な人だと感じるかもしれません。腹を立てる人もいるでしょう。ところが当の本人には、失礼だとか無礼だと か思われるような行動をとっているつもりが全然ないのだとしたら、そこに文化の違いによる衝突が起こってしまうわけです。

以前筆者が教務主任を務めた日本語学校に、初めてバングラデシュからの学生が入ってきました。彼の態度というのも、日本人一般から見るととても変わって見えるものでした。

生活指導などでこちらが説明をして、理解できましたか?と問うと、彼は微笑んで首を横に振るんです。首を横に振るというのは、「理解できない」とい う意味だとしか思えないわけですが、彼のその意思表示は、「理解できました」という意味なんですね。でも日本での生活では、その首の振り方は通じません し、逆の意味にとられてしまいますから、大変かもしれないけど、首はたてに振るようにしてくださいと指導しなければなりません。

首を振るというのも、言葉の違い同様に、表現方法の違いです。同じ動作でも、文化によって意味が変わることがあるわけです。ですから、「それじゃあ意味がわからないよ!」といって腹を立てるわけにもいかないんですね。

様々な局面で効率を追求するのも、私たち日本人の当たり前ですから、首の振り方が変だという、非効率きわまる外国人に腹が立つこともあると思いま す。待たせているのに歩いてくる外国人にも、やはり腹が立つかもしれません。しかしそれでは外交問題に発展しかねませんから、腹を立てるのだけは、なんと しても我慢しなければなりません。

それよりも、そうした違いを知ることは、トリビアの泉のように、なんとも楽しいことでもありますから、違いを見つけてやろうという好奇心をもって、違うことを楽しむ姿勢があったら、外国人との付き合いは、とても楽しいものになるのではないでしょうか。

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