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	<title>外国人観光客対応 受け入れの考え方</title>
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	<description>こちらは「ようこそニッポンどっと混む フォーラム」です。外国人観光客の受け入れ対応にあたって、文化の違い、習慣の違い、異文化理解などを考えるサイトです。</description>
	<lastBuildDate>Sun, 16 Aug 2009 00:14:36 +0000</lastBuildDate>
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	<item>
		<title>宗教のこと</title>
		<description><![CDATA[世界の主な宗教といえば、人口の多い順に…
キリスト教　イスラム教　ヒンズー教　仏教　シーク教　ユダヤ教
…となっています。
しかしこれは単純なものではありません。例えば第10 位に、私たちの「神道」が入っていますが、「私は神道の信者です。」と常に意識している日本人はほとんどいないようにも思われます。
キリスト教とイスラム教は、それぞれにいろんな宗派があって、特にキリスト教はバラエティーに富んでいます。カトリックとプロテスタントでの対立もありますし、本来カトリックだったイギリスでは、16世紀にローマ教皇から離脱してプロテスタントのようになりました。それは政治的な問題からそうなったもので、信者の信仰心から変わったものではないようです。
政治的に宗教をコントロールすると、一般信者の中には反感を覚える人たちも出てきそうなものですから、そこから争いも起きて、流血の事態ともなります。イスラム教でも深刻な宗派対立がありますし、インドではイスラム教とヒンズー教とに分かれて、今のようにパキスタンとバングラデシュがインドから分離しました。未だに宗教対立は続いていて、テロなども発生しています。
イスラエルは、第二次大戦後にアメリカとイギリスなどの後押しで作られた国ですが、イスラム教徒によって支配的だった土地に、ユダヤ教の人たちが入植してきて、それが今でも続いて殺し合い（戦争）が続いています。
私たち日本人は、その点いたって脳天気といいますか、自分が「なに教徒？」 なのかさえ意識していません。子供が生まれれば神社、結婚式は神社かキリスト教会、毎年お盆には仏教のお寺にあるお墓にお参りして家の中には仏壇と神棚が共存しています。クリスマスや聖バレンタインデー、なんてものを喜んで祝って、死んだら仏教徒として戒名をもらいます。
「こんなわけのわからない宗教生活はいやだ！」と思う日本人もほとんどいませんから、要するに日本人は「何でも教徒」なんです。 「何でも教徒」としては、世界での宗教対立や、それによる殺し合いが続いていて終わらない現状に対しては、大いに理解に苦しむことになります。
そんな日本も、かつての大日本帝国では、「国家神道」というものを立てて、天皇陛下を神と仰ぐことを全国民ばかりでなく、台湾人や韓国人や、その他国々で、政治の力で強制してきました。本当に心から天皇陛下を敬愛する人ならいいでしょうけど、「天皇陛下」といわれてもちっともぴんと来ない人々には、非常につらいものだったはずです。欧米の強国と肩を並べてやっていくためには、それも国家として必要な政策だったと見ることもできるのかもしれませんが、政治による宗教の押しつけというのは、必ず大きな対立を招きます。犯罪者（政治や法律と対立する人々）を増やして流血や殺し合いも増えます。
日本はアメリカに戦争で敗れて、皇室や天皇陛下の地位は残してもらうことができましたが、宗教を強制されることはなくなって、平成の現代では明らかに「何でも教」といえる状態になっています。おかげで宗教に端を発する争いごとはなくなりました。
そうして見ると、宗教なんてない方が良いともいえそうです。ジョン・レノンも「 Imagine 」 の中でそう歌っています。宗教なんてなくしてしまえ！ とまでは言わなくても、凶器や劇薬の取り扱いに注意が必要なように、宗教の取扱にも細心の注意が必要だといっていいのではないでしょうか。
とはいえ、現実には宗教に熱心な人々が世界中で暮らしています。そんな人々が日本にもやってきます。
何年か前のことでしたが、伊豆市土肥にある「恋人岬」で写真取材をしていたときに、台湾人の団体さんがいて、中に足腰の非常に強そうなおばあさんがいました。「恋人岬」は、けっこう大変な坂を歩かなければならないところなんですが、おばあさんは若い人たちに遅れるでもなく、すたすたと歩いていたので、思わず声を掛けてしまいました。
「足が丈夫ですね。私より速いですね。」
そういうと、おばあさんは私に説教を始めました。
「あんた、南妙法蓮華経を唱えている？」
「え？ 唱えていません。」
「毎日必ず、南妙法蓮華経を唱えなさい。そうすれば病気もしないし、健康でいられるから。」
そのおばあさんは、日蓮宗の信者だったんです。台湾からはるばる静岡県を訪れているのも、富士宮の大石寺が目的だったようです。
とりとめもなく書いてしまいましたが、何かのヒントになれば幸いです。
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		<title>世界のしくみが変わりそうな時代</title>
		<description><![CDATA[ラビ・バトラという予言者であり経済学者でもあるという偉い先生は、「資本主義経済は崩壊する」と、かなり昔からおっしゃっておいでです。ソ連と東欧の社会主義政治体制がまだまだ元気だったころから、「社会主義は崩壊する」といっていてその通りになったというので、「資本主義の崩壊」もきっと起こるだろう、いやそんな馬鹿なことはない、と、いろんな見方があったのですが、ここへきて、アメリカの「ビッグ３」といわれてきた自動車会社が総倒れになり、商売がうまいはずもない国の主導で経営を立て直すというんですから、いよいよこれは来るべきものが来たという見方をする人も多くなってきました。
邱永漢先生はさらに先を仰っておいでで、資本主義どころか民主主義も危ないのだそうです。先生いわく、馬鹿が馬鹿を祭り上げて政治指導者にするのが現在の民主主義で、こんなシステムがうまくいかないのは日本の政治家など見ていれば明らかだろうとのことです。
まあ、そうかもしれません。
政治家で人気が出るのは、国民に対して偉そうな態度を取らない人です。典型的な例が、小泉元首相でしょうか。それに対して人気が地に落ちるのは、偉そうな素振りを見せる人です。福田前首相や、今の麻生総理もそろそろぼろが出てきました。
要するに、「私は国民を尊敬しております。」「私は国民の皆様のために命懸けで働きます。」といった姿勢を見せ続けることができさえすれば、そこそこに高い支持率を維持できるというわけです。偉そうな態度を見せたらそこで政治家としてお仕舞いだという見方もできるでしょう。
政治家に限らないことですが、私たちが「いい人だなあ」と感じる人というのは、決まって偉そうにしない人ですね。特に、途方もない業績があって、正真正銘の偉い人だと誰からも尊敬されるような人が、「私はどこも偉くなどありません。」といって、謙虚ににこにこしていれば、その人への尊敬はさらに集まります。
以上の話というのは、日本人と日本人の問題ですが、これを対外国人で考えてみてもきっと同じだろうと思います。特に、言葉の通じない外国人とのコミュニケーションは、そのほとんどが、態度や顔の表情になってきますから、英語で言うところの「アイコンタクト」が何よりも重要です。実は私たちは、日本人どうしであっても、このアイコンタクトによって、言葉以上に大事な情報のやり取りをしています。
偉そうにする人というのも、その人の目を見ただけでかなりわかってしまいます。記者に囲まれた麻生総理の目つきが、記者さんたちを馬鹿にした様子というのも、その目つきから伝わってくる情報でしょう。特に最近の麻生さんは、目つきが本当に悪くなっているように感じます。
でもそこで日本語が通じれば、目つきの悪いことを色々に言い訳できます。しかしこれが外国人で日本語が通じないとなりますと、もしこっちの目つきが「悪い」と思われてしまったら、もうどんな言い訳もできません。私たちは外国人のお客さんから、目つきひとつで悪人にもなれば善人にもなってしまうというわけです。
思えば、私たち日本人は、日本語の通じる唯一の国民として、日本語だけに依存して生きています。日本語さえ通じれば言葉の問題もなく、どんなことでも伝わりますから、なんでもかんでも日本語でコミュニケーションして暮らしています。さらに「美しい日本語」だとか「日本人にしかわからない」とかいって、自惚れてさえいますから、自分たちの使っている日本語という行為そのものを疑うことはしていません。そのせいか、アイコンタクトという最も原初のコミュニケーション手段をないがしろにしてきてもいるのかもしれません。
政治も、経済も、人間としての本質的なあり方を高めようとするものではなく、言葉に偏重して言葉に振り回され、言葉によってのみ判断するようなことになってきたからうまくいかなくなってきているのかもしれませんね。
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		<link>/forum/?p=42</link>
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		<title>安全な国、日本</title>
		<description><![CDATA[女性が一人でも旅行できるほどの治安の良さは、日本が世界に誇れるところだったのですが、どうも最近は犯罪が増えていて、未解決の事件も増えています。
今朝の「おはよう日本」（NHKの朝のニュース、筆者の従兄の長男がディレクターをやっております）では、ひったくり犯から自分と持ち物を守る方法について、犯罪アナリストの人が大事なポイントを紹介してくれていました。
これまで治安の良いのが当たり前で暮らしてきましたから、犯罪が増えたといって急に心構えを変えるのも簡単ではありません。
1986年、今から23年も昔に、筆者は西ドイツでドイツ人の友人、ミシャイル（ミヒャイルという発音もあります。）のお宅にお世話になったことがあります。彼と奥さんのベアトリックスと三人で、あちこちに遊びに連れて行ってもらいましたが、あるカフェで、私が勘定を払おうと財布を持ってレジに行ったら、ミシャイルが「だめだ」というんです。「勘定は自分が払う。」ということではなくて、財布を持って人に見せるのがだめだということでした。
「財布は人に見せてはいけないよ。お金を払うときのために、あらかじめ必要なお金だけをポケットに入れて、それで払うんだ。」
彼はそう忠告してくれたわけですが、財布を見せるとか、見られるとか、そういうことを常に気にしているヨーロッパの人たちは大変だなあと思ったものです。
それ以来私もけっこう用心深くなりましたが、最近の日本では本当にそうした注意が必要になってきたのかもしれません。
昨日は静岡市内のある駐車場で、全然用心深くない女性を見かけました。かなりの高級車でしたが、車を駐車して駐車場から立ち去る女性が、車のキーを、なんと、肩にかけたバッグの外側の小さなポケットに引っかけて、キーがすぐ見えるようにぶらぶらさせて歩いて行ってしまったのです。ちょっと目を疑うようなことでしたが、もしそこでお節介に注意などすれば、その女性からどう思われるかわかりませんから黙って見ておりました。
キーがどこに行ったかわからなくなるのを防ぐためもあるんだろうと思います。ああしておけば、しまった場所がわからなくなることはありませんから、彼女にとってはそれが一番の方法なんでしょうね。
日本と日本人は、まだまだこんな様子です。財布を人に見られるのは普通のことですし、キャッシュカードでおよそいくらぐらい引き出したかも、近くにいた人にはすぐわかってしまいそうです。力のないご高齢の女性などがひったくり犯の被害に遭うわけですが、悪党どもは弱い者に目を付けて狙うという卑劣なことを平気でしますから、常に用心を重ねて、「狙われない人になる」ということが大事なのだと思います。
治安の悪くなってしまった日本。これからまだ悪くなるかもしれない日本を嘆きたいのは誰でも同じですから、また昔のような治安を取り戻したいとも思います。
じゃあどうやって戻すかということになると、まず悪くなった原因を知らなければなりませんが、その原因については、不確かな憶測や偏見が混じってはいけないでしょうね。
とても有力な説があるんですが、ここで書くことは控えておきます。セミナーなどで皆さんとお会いできることがあって、もし時間が十分余ったら、お話しする機会もあるかもしれません。
]]></description>
		<link>/forum/?p=41</link>
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	<item>
		<title>異文化を理解する近道として、価値観をできるだけ中立に。そして寛容。</title>
		<description><![CDATA[トヨタ2000GTという往年の「名車」があります。WebCGでモータージャーナリストの熊倉重春氏が語るのは、東京オリンピックのわずか３年後、日本がこれから高度経済成長を果たそうという時代に、大卒サラリーマンの初任給がせいぜい２万円だったのに238万円（今の価値で言えば2000万円以上）もしたこの超高級車＝スーパーカーが、いかにすごい車であったかという話です。
いや本当に、すごい車でした。なにしろ、ほとんどの人が買えなかったんですから。買えないのが当たり前で、買えたのは、ごくごく一部の大金持ちのうちの、さらにごくごく一部の自動車好きだけだったのです。
トヨタは今ではレクサスという高級車ブランドを育てようとしていますが、私たちが、自分の価値観をできるだけ中立に保つために是非自覚したいのは、それは「メーカーがブランドを育てた」という点です。決して一般大衆主導の話ではなくて、あくまでもメーカー主導の話だということですね。
よく聞かれる悪い表現で言えば、「消費者はメーカーに踊らされるもの」という言い方になります。
現代に至るまでの結果だけを見れば、日本はアメリカに次いで世界第二位の経済大国になりました。世界中に経済援助をしています。さらにアメリカ国債を大量に引き受けてアメリカ経済まで支えています。それには、私たちが「踊らされた消費者」であったからこそ為しえたことだった、とも見ることができるわけです。ですから、「メーカー主導で消費者が踊らされてきた」ことを簡単に批判したり否定したりはできません。
しかしそれと同時に、私たちがメーカー主導で植え付けられてきた「消費文化の価値観」を、他国へ無差別に伝道していいという話でもないでしょう。けれども実際は、日本が作り続けてきた大量の自動車やカメラ、家電製品などは、近隣諸国をはじめとして世界中の発展途上国に、「消費の美徳」として伝道されてきています。お隣の韓国でも、日本のメーカーをしのぐ巨大な自動車メーカーや家電メーカーが世界シェアを広げてきましたし、台湾や中国へも、そうした価値観が広まり、根付いています。こうした傾向は、世界中の当たり前となっているわけです。
もちろん、それに抵抗しようとしている国々もないわけではありません。大量消費を良しとする価値観は、アメリカなどがその根本ですから、反米思想に凝り固まった国々では、アメリカ的な価値観への抵抗が敵愾心となり、自分たち本来の価値観をいっそう強調しようとします。その代表が、イスラム過激派です。
アルカイーダのテロなどは、世界の脅威となっていますが、イスラム過激派が敵と見なしているのは、アメリカそのものだけでなく、アメリカ式の消費文化と、その価値観に浸食されて高級車などをありがたがっているアラブ諸国のあり方でしょう。
言うまでもなく、イスラム教徒全体が過激派ではありませんし、それどころか、インドネシアからアフリカ大陸まで、世界を広く覆うイスラム諸国を見渡せば、穏健派の方が多いのが実情です。しかしながら、イスラム諸国における過激派の扱いという葛藤の一因として、アメリカ式消費文化による浸食が存在するのは間違いなさそうです。
理想的な世界のあり方というのがもしあったとすれば、大量消費を良しとするアメリカ的な価値観は、なるべく世界に広めるべきではなく、できればアメリカと西欧、そして日本程度にとどめておくべきだったということもいえるのかもしれませんね。
それがどうしてこんなに世界中に広まってしまったかといえば、アメリカ人や日本人が、なんの疑いもなく、大量消費は人類全体に良いことだと信じ込んでいたためだったのではないでしょうか。
このような「一方による信じ込み」が、必ずしも世界に幸福をもたらさないというのが事実だろうと思います。「一方による信じ込み」は、むしろ世界に葛藤と摩擦をもたらす危険もあって、それが現実に、イスラム過激派によるテロなどの原因になっているのです。
さらにいえば、そうした葛藤や摩擦は、必ずしもイスラム過激派だけの問題ではありません。穏健派のイスラム教徒にとっても、自分の価値観をどう保つべきかという葛藤によって、心を揺るがされる問題になっているはずですし、今まさに大量消費に突き進んでいる中国の国内でも、日本ではありえないような大きな格差をもたらしています。富めるのは上海などの沿海都市部ばかりで、貧しい人々はまだ十億人以上存在しています。
ではみんなが豊かになれば解決するのかといえば、それも決してそうとは言えないのではないでしょうか。現実として、私たち日本人自身にも葛藤はあるはずですし、アメリカ人自身ですら揺れています。たとえば、超高級車を所有して乗り回すことは、誰もに共有される価値だとは決して言えないからです。
それは別に、時代が環境問題に主導されるようになったからではありません。「環境主義」という新しい価値観が生まれたら生まれたで、そこでもまた、世界に共有されるとは限らない、大国主導の一方的な価値観が振りかざされることに変わりはないのです。
価値観を中立にしたいというのは、世界の人々の価値観がなにを一番としているか、それは国によって、個人によって、一概には判断できないからです。異文化の人々と対話していこうとするなら、まず自分の「信じ込んでいる価値」というものを振りかざさないことが重要になってくるはずです。
筆者はイスラム教徒の人々ともお付き合いをしてきておりますが、彼らから、「あなたはなぜお祈りをしないのですか？」などと質問されたことはありません。「神を信じますか？」と聞かれたこともありません。また、神を信じている様子もなく、お祈りももちろんしない筆者に対して、彼らが軽蔑の目を向けてきたこともありません。それは彼らが筆者を敵と見なしていなかったためでしょう。
同じように、アメリカ的な価値観を信じ込む私たちも、もし相手を敵とは見なさないのであれば、アメリカ的価値観を信じ込んではいない人々に対して、自分が所有している車を自慢したり、カメラやパソコンを自慢したりはできないはずです。ましてや相手の身なりに言いしれぬ違和感をおぼえたときでも、それをそのまま顔の表情に表すなどといったことはできません。
宗教的な価値観や、生活文化に関わる価値観というものは、このように、相手に無自覚でぶつけて良いものでは決してありません。それは、私たちが共有するべき、もっと大事な価値というものがあるからです。それは他でもなく、「共存したい」と願うことです。親が子を育てるという基本的な姿は世界共通のものです。それを核にして、その延長として、隣人愛や、寛容があるはずです。思えばこの「寛容」という価値観こそが、異文化との共存を目指して苦難の道を歩んできた国々がたどり着いた、大いなる智慧なのではないでしょうか。
私たちの日本には、まだそうした経験がほとんどありません。経験がないために、「寛容」という言葉も、普段の生活ではほとんど聞きません。「寛容」は、許し合いの社会を実現しますが、日本社会はどちらかといえば、監視し合う社会です。人と違うことをする人がいればまず警戒するのが日本社会です。そのおかげで、世界一治安が良かったりするわけですから、日本社会のこれまでのあり方を全面的に否定することなどできませんけれども、もし「寛容」ということも、加えることができれば、日本という私たちの国は、海外からのお客様にとって、より良い訪問国となることもできるのではないでしょうか。
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		<title>外国語習得の近道</title>
		<description><![CDATA[「日本語は、日本語で生まれ育っていないと難しい言語だ」という意味で、「日本語は外国人には難しい」ということをよく耳にします。事実その通りということもありますが、そうとも言い切れないという面もあるようです。
まず、難しいのは「日本語だから」ということではないでしょう。英語も大変に難しい言語です。「英語は簡単な言語だ」という意見をインド人から聞いたことがありますが、それはもしかするとそう言った彼が頭が良すぎるのか、あるいは、彼の母語（母国語）が、英語を習得しやすい言語だからということもあるんでしょう。
難しい外国語と、それほどでもない外国語があります。筆者は日本で生まれ育ったので、日本語が母語です。日本語が母語ですと、よくいわれるのは、韓国語ならそれほど難しくないということ。そして筆者が実際に習得してみて、中国語も決して難しい言語ではないということです。しかし英語は、学校で勉強する程度や、特定の職業の特定の状況だけで決まった言葉ばかりを使う程度ならともかくとして、実際にイギリスやアメリカの一般的な英語社会で通用するレベルまで習得するのは大変なことです。
逆についてはどうでしょうか。日本語を学習した韓国人は、概ね日本語が上手です。同じ時間を日本で過ごしていれば、台湾人より韓国人の方が日本語が上手になるようです。いろいろな国の人々の日本語教師を担当してきた経験からも、台湾人には日本語はかなり難しい言語のようですが、韓国人にはそれほどでもないように思われてなりません。
だったら台湾人はみんな日本語が下手かというと決してそんなこともなくて、戦前に日本語教育を受けてきたご年配の方々、たとえば元総統の李登輝先生の世代の方々は、皆さん日本人以上に日本語が流暢です。少なくとも、日本の若い人たちの平均的な日本語運用能力に比べますと、日本統治時代を経験してきた日本世代の台湾人の方が日本語が上手ともいえるかもしれません。
筆者が日本語教育を担当してきたのは、主に戦後生まれの台湾の人たちですが、日本人より上手と思えるような人はほとんどいませんでした。筆者の知る限り唯一の例外は、ようこそニッポンどっと混むのスタッフでもある陳さんです。台南出身の彼女の日本語は本当に見事なもので、話し言葉にしても書き言葉にしても、日本の社会人としてお手本にもなりそうなレベルです。もう長いお付き合いですが、初めて彼女を知ったときには、台湾の若い人にもこんな人がいたのかと驚いてしまいました。
いずれにしましても、日本語を取得しやすい母語と、そうでもない母語というのがあるのは確かなようですね。それには、母語というものが、そもそもどのようにして習得されるのかということを理解する必要もあるでしょう。
日本語が上手になれない人々に共通しているのは、「てにをは」といった助詞の部分が、どうしても使いこなせない点があります。これを世間の日本語研究では、首をかしげたくなるような複雑な理屈で説明しようとします。誰でも見たことのある例としては、辞書に載っている説明です。
『大辞林』における助詞「に」の説明：格助詞。上代から用いられている語で、動作・作用が行われ、また存在する、時間的・空間的な位置や範囲を示すのが本来の用法
これを読んでぴんとくる日本人はいないはずです。そもそも「格助詞」という概念からしてよくわかりません。学校の文法の授業が面白かったという人がほとんどいないということこそが、否定しようのない事実なのです。つまりそれほどまでに「文法」は役に立たないということなのです。どうしてそんなに役に立たないかといえば、研究されてきている「文法」なる学問が、根本的に間違った学問だからなんでしょうね。現実に、そうした「文法」は人工知能の役にも立ちません。子供たちや外国人に日本語を正しく習得させる役にも立ちません。むしろ日本語学習には有害なしろものでしかないという厳しい事実もあるのです。困ったものです。
自分の母語を社会人として使えるレベル、つまり大人として言葉で生活するようになってくると、それまで使っていない外国語を学習するのが困難になってくるという事実もあります。その原因として、母語の能力というのがすなわち思考能力になってくるということがあります。母語で思考することを、今度は別の外国語でも思考できるようにするというのは、ちょっと考えたら気の遠くなるようなことです。
それに対して、まだ思考能力が完成していない子供たちなら、複数の言語により思考できるようにもなります。子供のうちから外国に住めば、その国の言葉と、お父さんお母さんの言葉との両方が、かなりの短期間でもおぼえられます。
思考というのは、「てにをは」などの、意味はないけどなくてはならない単語を駆使しておこなうものですから、それが習得できるということが、その言語での思考能力を習得できるということです。では、私たち日本語を母語とする日本人は、「てにをは」をどうやって習得したのでしょうか？
先に見ていただいたような「格助詞うんぬん…」という「文法」を理解して習得した人は、私たちの中にひとりとしていません。むしろ学校で「格助詞」などという見知らぬ概念を強要されたときには、私たちのほとんど全員が違和感をおぼえたり、拒絶したりしたわけですから、「文法」など不要であるばかりか、正しい日本語にとっては敵ですらあります。
その「文法」を下地として、外国人向けに日本語の教科書が編集されていたりします。そんな教科書で日本語が習得できるはずはないわけですから、「外国人にとって日本語は難しい」ということになってしまいます。
一方で、そんな教科書とは無縁で、日本人の彼女や彼氏ができて、毎日日本語を聞いて生活していたという人は、そろって日本語が上達します。また、恋人や家族はいなくても、日本語という環境の中にひとり身を置いて生きていれば、おのずと日本語は習得できます。いずれのケースでも、恋人や周りの日本人は「文法」など無縁で暮らしていますから、誰も「てにをは」といった文法の解説などしてくれません。つまりそれが一番の近道であるというわけです。
筆者自身の経験でも、台湾でexワイフと付き合いはじめて急速に中国語が上達したように思います。彼女の家族とも付き合いがはじまって、今でも付き合いは続いていますが、それが一番の良い環境になりました。もしそうしたことがなくて、ただ台湾の中国語学校で学習しただけだったら、こんなに中国語ができるようにはならなかったはずです。
「外国語習得の近道」という題で書いてみましたが、「文法批判」のような内容にもなってしまいました。民間の日本語学者のひとりとして、また、家族を含めての日本語教育に深く携わってきた者として、世間一般に行われているような「文法」という学問が、その方向性においても有用性においても、根本的に間違いですよということを叫ばずにはいられません。それほどまでに、「文法」というのは奇怪な学問だということです。
私たち日本語で暮らしている者にとっても、外国語学習というのは、いかに文法から距離を置くかというのが重要な課題になると思います。「過去形」「過去分詞」といった「文法」や、辞書に載っている「意味」ばかりにとらわれていると、一生かかっても外国語は習得できないということになってしまうでしょう。
今度日本の高校で、英語の授業は英語だけでおこなうという教育方法の転換がはかられるそうです。私立の学校などではすでにおこなわれていることでしょうけれども、一番重要なのは、１：外国語 　→　２：日本語　という順番をおこなわないことだと思います。
というのは、外国語を日本語で理解しないということです。はじめに外国語を与えられて、意味がわからなかったら日本語に訳して理解する、という順番は、外国語習得の方法としては全然役に立たないといわれているんですね。
その順番はむしろ逆にして、はじめは日本語で考えてもいいけど、最後に外国語をもってくる。そしてその後は、また日本語に訳すということをしないようにします。そこでぐっとこらえるわけです。そうすることで、外国語の能力が次第に身についてくるのです。この方法というのがつまり、外国語で考える力を身につける方法にほかなりません。
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		<title>○○○人って、こうだよね？</title>
		<description><![CDATA[私たち日本人のほとんどは、日本に生まれて日本に育っています。一人の日本人が実際に会ったり、友だちになったりする外国人というのは、かなり少ないようです。
例えば、米軍基地もない静岡市では、アメリカ人の友だちがいるという人だけでも、かなり珍しいと思います。イギリス人となるともっと珍しくて、フランス人の友だちがいたりすると、もうほとんど宇宙人レベルかもしれません。
筆者は幸い、様々な国の友人知人に恵まれてきておりますが、肌や髪の色が違う一目でわかる外国人と一緒に歩いたりすると、いわゆる「黒船状態」です。
「黒船状態」というのは、オーストラリアの女性と結婚した筆者の親友がかつていった言葉で、「女房と一緒に（静岡の田舎を）歩いていると、周りの日本人から奇異の目で見られたり、驚かれたりする」という、そんな状況のことです。
筆者も国際結婚をした口ですが、exワイフは台湾人でしたので、静岡の田舎のどこを歩いても気付かれたことはありませんでした。むしろ東京のあるホテルで、日本人である筆者自身が「日本の方ですか？」と聞かれたことがあったぐらいです。
近隣の国でも、遠い西洋でも、一人の日本人が生涯に出会って友だちになる外国人の数は限られています。何十年生きてきても、まだ日本人以外とは付き合ったことがないという人の方がむしろ多いでしょう。
そんな日々の暮らしの中で、ごくまれに外国人に接する機会があると、その外国人がその国の典型的なタイプであると思ってしまうことがよくあります。
例えば、1週間ほどアメリカへ団体旅行に行って、あるアメリカ人から話しかけられて馬鹿にされたとしましょうか。それはかなりショックですから、「アメリカ人って、けったくそ悪い奴が多い。」という印象になってしまうと思います。
しかし実際は、アメリカにも良い人もいれば、悪い人もいます。日本に良い人と悪い人がいることと、何ら変わりはないわけです。
または、初めて出会ったアメリカ人が、とても優しくて明るい素敵な人だったとしますと、「アメリカ人って、優しくていいなあ。」という印象になるかもしれません。
しかしこれも、アメリカ人みんながそんな素敵なキャラというわけにはいきません。次に出会ったアメリカ人が悪い人だったとしても、その人をつい信用してしまいますから、騙されたり危害を加えられたりする危険性も高くなります。
「アメリカ人ってさぁ、」
なんて言って、大して付き合ったこともないのに、「アメリカ人はこんな人たち」という先入観や固定観念を持つこともよくある間違いです。
ある日本の社長さんが、
「台湾人ってのは、カネのことしか考えていない。」
と言っていたこともありました。あの社長さんが一体、何人の台湾人と付き合ってきたのか知りませんが、「台湾人ってのは、」と、決めつけている態度には、非常にがっかりしたものです。
「血液型性格判断」というのが、日本などでは流行っていたりしますが、「○○人はどう、○○人はどう、」と、人の性格を国籍だけでタイプ別するとい うのも、冗談のネタとしては面白いかもしれませんが、実際に人と人との付き合いをする上では、あまり役に立つ情報にはなりません。
もっとも、民族性というものは確かにあるようで、私たち日本人も、近隣諸国の人々から、いろんなふうに言われています。
「台湾人は情。日本人は義理で動く。だから日本人の方が冷たい。」
「日本人は約束やルールを守るから信用できる。しかし有礼無体。」
といったことをよく台湾で聞きました。「有礼無体」というのは台湾語で「ウーレーボーテー」と読み、礼儀は見せるが心はこもっていない、といった意味です。
個人主義で、人はみな十人十色という意識の強い台湾人に比べると、日本人は常に周囲との協調性を大事にしていて、よく言われるように、全体主義的です。
しかしこれは考えてみますと、台湾人の一人一人についてそれが必ず当てはまるというものではなく、日本人の全員がそうだと決まった話ではありません。「○○人はこうだ。」という時、それはいつも「○○国の社会がそうだ。」という意味になるのではないでしょうか。
一人一人はみな個性を持っていても、ひとたび同じ国の人たちだけで集団になると、一定の行動パターンというものが出てくるわけです。
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		<link>/forum/?p=32</link>
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		<title>素朴な温泉街が示唆するもの</title>
		<description><![CDATA[経済危機はまだ終わりの見えない状況ですが、アメリカはオバマ大統領が「終わりの始まり」といって、大胆な舵取りをおこなっているようです。
一方で、世界第二位の経済大国では、足の引っ張り合いのみという、政局あって政治がないような悲惨な状況です。やろうとしているのが本当に景気回復なのか、単なるアメリカ救済なのかもわかりませんし、苦境に陥っている韓国経済を助けようという余裕など皆無のようです。
韓国人観光客のおかげでなんとか商売が成り立ってきた九州などからも悲鳴が聞こえてきます。唯一、円高のおかげで日本人観光客がたくさん買い物をしてくれる韓国のホテルやブランド品店などが好況だということのようですね。
これでは一方通行になってしまいますから、この６月に開港を予定している「富士山静岡空港」に韓国からの定期便が飛ぶとしても、乗客は行きも帰りも 日本人ばかりになるか、下手をすると日本の不況が今後さらに深刻化して、定期便を飛ばすこともできなくなってしまうかもしれません。４月から、燃油サー チャージが値下げされるそうですが、海外旅行をする余裕のある日本人が、本当にこれから増えてくるのか、その見通しも立たないわけです。
そんな中、旅行をしたり、高級品を買ったりできる富裕層が増え続けているのが中国です。株価が上がらないといった不安材料はもちろんあるんでしょう けれども、中国人はお金の動きに対して敏感で目の利く人が多いので、株が儲からないとなれば株など買わないという行動をはっきり取ってきますから、中国の 実体経済が本当に悪くなっているということではないはずです。
「富士山静岡空港」には、上海便も就航しますので、むしろ中国人観光客が増えてくるのかもしれません。
しかしいずれにしても問題は、静岡県がリピーターを生み出せるかということに帰結するんでしょうね。富士山を見た人が、また見たい、年に一度ぐらい は見たいと思うかどうかわかりませんし、浜名湖や伊豆などの観光地をメインとしたツアーへの需要があるのかどうかもわかりません。
これまで外国人観光客がほとんど訪れていない所であっても、日本人の観光客が減っているから外国人が欲しいということになってきただけで、日本人・外国人を問わず、本当に魅力的な観光地やリゾート地へと発展してきたかどうかは別問題です。
観光というのは、一種の流行産業だとも言われます。昭和30年代、40年代に魅力的だった観光地が、平成の現代になってまだ人々を魅了するとは限りませんし、観光業に携わっている皆さんも、そんなことは百も承知だろうと思います。
静岡市には安倍川の上流、安倍奥の地に、梅ヶ島温泉という古い温泉街があります。旅館と民宿が12軒と日帰り温泉兼食堂が1件あるだけの小さな温泉街ですが、下界からはしっかり隔絶された大自然の中、独特の落ち着いた雰囲気があります。
流行りの「露天風呂付き客室」といった高級なものもありませんし、文豪の愛した部屋もありません。また、特異な景勝地というほどでもありません。時 間も時代も止まったまま、ひっそりとある素朴な旅館には、インターネット接続もありませんし、携帯電話もやっと通じるようになったぐらいですから、そこで 味わえるのはどこまでも、日本の、本来の温泉宿の風情だけなんですね。でもそれがとても純粋なものであるために、また来て落ち着きたいというお客様がある んだと思います。
筆者が外国人観光客に是非紹介したいと思うのは、このような、純粋な日本です。ホテルという名の旅館ではなくて、旅館という名の、いつまでも変わらぬ温泉宿です。
そんな温泉宿には、いつまでもずっと続いてほしいと思います。それこそが本当に守るべき文化財なのではないかとも思います。そこには「流行産業」というニュアンスもなければ、実は、外国人観光客の姿もほとんどありません。
梅ヶ島温泉も決して景気がいいわけではありませんが、そこには何か、観光客受け入れのあり方についての、大事な示唆があるように思えてなりません。
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		<title>Made in Japan</title>
		<description><![CDATA[30年以上も昔のこと、高校の英語研修でカナダとアメリカへ行きました。初めての飛行機、初めての海外で、同級生全員、興奮していました。
当時はまだ日本製品といえば、安かろう悪かろうの時代ですから、ほんのちょっとの小遣いからどんな記念品を買って帰ろうかと、アメリカ製やカナダ製に目を輝かせたものでした。日本のサラリーマンが月給10万円で、アメリカは20万円といわれたころのことでもあります。
結局私が買ったのは、スーパーマンのTシャツでした。胸に「S」のマークが入った青いTシャツでしたが、クリストファー・リーブの映画『スーパーマ ン』よりもずっとずっと前の時代でしたから、テレビ番組でジョージ・リーブスが演じたスーパーマンのマークです。今となっては骨董品ですが、当時はそれで も本物みたいなマークだったわけです。
仲の良かった友人のひとりは、「Vancouver（バンクーバー）」と英字の入った帽子を買ったんですが、買ってから気付いたのが「MADE IN JAPAN」の製品表示です。もちろん、日本で売っている製品ではありませんから、記念品には違いないわけですが、彼はひどくがっかりしていました。
あれから30年以上経った今の時代でも、これとまったく同じことが起きています。というのは、日本にはるばるやってくる中国人観光客のことです。
せっかく日本まで来たんだから、なにか素敵な日本製品を買って帰ろうと思うのが旅人の人情ですが、買ってしまってから「MADE IN CHINA」の表示に気付くということがけっこう多いようですね。
そんな事情に諦めた中国人観光客もいるようで、日本に来たからといって特に買うべきものはない、とまで言う人もあるようです。
もちろん、そんなところにこそビジネスチャンスがあるわけですから、中国人が欲しくなるような製品を作って成功する機会が、大メーカー、中小メーカー、個人商店ともに、対等に与えられていると考えることができます。
中国の人々、韓国や台湾の人々が、どんなものに興味を示すか、これをしっかり考えて、大当たりを取ることができれば、日本人も日本本位でない、周辺諸国の人々の気持ちが少しでもわかってきたということになるのではないでしょうか。
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		<title>サフランの香り</title>
		<description><![CDATA[アメリカやヨーロッパに行ったことのある人は経験があると思いますが、人々に匂いがあって、日本ではない、外国の空気だと実感します。匂いは主に体臭だと思われますが、体臭は食べているものによっても違ってくるようで、またそれを隠そうとするための香水・コロンによっていっそう日本との違いが際だって感じられます。
筆者の家にはこれまでに、台湾人（筆者の子供たちも半分は台湾人の血統ですが） 、中国人、インド人、イギリス人、韓国人、バングラデシュ人、ベトナム人、タイ人、フランス人、フィリピン人、ドイツ人、アメリカ人などが訪れており、中にはしばらく泊まってくれた人たちもいます。
日本人のお客さんが来るときももちろんそうなんですが、いつも心配になるのは我が家は臭くないだろうかということですね。
「臭くないですか？」
と、直接聞いたことはほとんどないんですが、基本的に「きっと臭いはずだ」と思うことにしています。
特に飛行機で遠くからはるばる来てくれたイギリス人の年配者がふたり、ちょうど１週間ぐらい泊まっていってくれた時には、おそらく我が家の匂いは強烈だったんじゃないかと想像しています。彼らのうちひとりはもはや筆者の親友でもあって、長年にわたってメールなどで（英語で）連絡を取り続けていますが、なかなかその点について聞いてみる勇気はありません。
なぜ強烈だったろうと思えるかといえば、彼は自分の泊まっていた部屋にコロンをいっぱいまいてすごい匂いにしてくれたということがひとつ。もうひとりの人は部屋にコロンなどまきませんでしたが、我が家に滞在中は不眠に悩んでいました。いろんな音がするからとは言っていましたが、匂いもあったはずです。
筆者が海外で臭かったところといえば、台湾の屋台料理などもすごいのがありますが、筆頭は延べ３か月ほどいたことのあるフランスのパリで、メトロ（地下鉄）（のパレロワイヤル駅だったかと思いますが）などは下水の匂いが充満していてたまりませんでした。やはり排泄物の匂いはこたえます。パリではほかにも臭いところがけっこうありまして、パリジャン・パリジェンヌたちというのは、こんな匂いの中で暮らしているのかと思ったものです。
もっとも長期にわたって滞在した「ホテル」は、リュクサンブール公園近くの安宿で、長逗留の人向けの下宿屋みたいなところでしたが、１泊わずか25フラン（当時700円ぐらい）のその部屋が幸運にも空いて住み始めた当初は、なんだか変な匂いだなあと思いました。なんの匂いなのか、それは皆目わかりませんでした。
日本で嗅いだことのない匂いというのは、どうやら主に食べ物に原因があるのではないでしょうか。海外から来た人たちからも、日本の魚や味噌の匂いがだめという人は少なくないようですが、例えば台湾なら、香辛料の八角や、香菜（コリアンダー）の匂いが気持ち悪いという日本人も少なくありません。
日ごろよく食べている食品が発する匂いは、家庭の台所の匂いになります。またそれは、排泄物やおならの匂い、そして体臭にも関係がありそうです。もちろん、そうした匂いにならない食品もあるでしょうけれども、しっかり匂いに反映される食品もあるからです。
昨夜は久しぶりにタジンを作って食べました。タジンというのは北アフリカ地中海と大西洋沿岸のモロッコ王国の定番料理で、筆者がかつて１か月ほど滞在したときに、すっかりその虜になってしまった世界的においしい料理です。
タジンを簡単に紹介しますと、たっぷりのオリーブオイルで炒めた肉（羊肉や子牛肉、鶏肉などのいずれか）を、じゃがいもやナスなどの野菜とともにトマトで煮込んだものです。味付けは肉を炒めるときの塩コショーで、煮込むときにサフランを使います。
サフランというのは、ごく微量でもびっくりするぐらい値段の高い香辛料で、日本ではスペイン料理のパエリアなどに使われます。黄色く鮮やかに色のついたサフランライスでご存じの方も多いでしょう。
昨夜は一番安い鶏のもも肉を使いましたので、材料のうちで一番お金がかかったのがサフランでした。１グラムも入っていないような分量の１ビンで、千円近くします。 その１ビンを全部使って、かなり大量のタジンを作ったんですが、これがすごい香りを発します。
普段は魚や味噌の匂いがメインの我が家の台所が、まるで遠い外国のような匂いになりました。まだたくさん残っていますので、一晩経ったらそれが家中に充満しています。また、サフランの薬効作用でおならがよく出るんですが、なんだかそれまでもサフランの匂いがするようです。
サフランは極めて芳香ですから、排泄物にサフランの香りがつくならけっこうなことかもしれませんが、これを普段の和食以上に頻繁に使うようになれば、我が家は日本の匂いではなくなってしまうこと、間違いありません。そしてさらに、我が家全員の体臭までもが変わってしまうことでしょう。
外国人の匂いというものも、きっとこのような原因があると思います。そしてそれは私たち日本人の匂いについても同様です。
隣にインド人やバングラデシュ人が住んでいる日本人から、匂いがきつくてたまらないという苦情もあるようですが、食べ物が違えば家全体が異様な匂いになるわけです。インド人やバングラデシュ人にとっては、日本の味噌などの匂いはとてもきつくて、なかなか我慢できないということもあるようですから、日本人と隣り合わせたら、お互いに匂いと匂いで火花が散るでしょう。
サフランについては、ウィキペディアに詳しい説明があります。多量に摂取すると死ぬこともあるそうですから、使用量は控えめにするのが良いようです。
→ ウィキペディア「サフラン」
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		<title>表記のしかたについてのメモ</title>
		<description><![CDATA[日本で暮らしていると当たり前だと思うようなことでも、海外からのお客様にはちょっと通じないということがよくあります。
今回のメモは、「Ｍ」という文字の使い方です。数字の後ろにつく「ｍ」といえば、いうまでもなく「メートル」ですよね。
「５Ｍ」＝「５メートル」
「１００Ｍ」＝「１００メートル」
ところが、日ごろ英文に接しておりますと、「５Ｍ」＝「５百万」であることが多いようです。 「メートル」ではなくて「ミリオン」の略だというわけです。
「５Ｍ」＝「５メートル」 というのが通じる国と通じないかもしれない国とがあると考えれば、「Ｍ」という略し方をやめて、英語なら「metres」というように、ちゃんと単語として表記する必要が出てきます。
もちろん、単語の意味は複数あるのが普通で、いくつかの意味の中からひとつの意味に特定するには「文脈」というものが必要です。「Ｍ」にしても、文脈さえあれば、それが「百万」なのか、「メートル」なのかがわかります。
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