2008/11/26 水曜日

外国語とはどんな言葉か?

カテゴリー: 外国語 — admin @ 21:39:17

筆者も静岡県警で中国語通訳の仕事をいただいたことがあります。台湾には二年半ほど住んでおりましたが、台湾人と結婚して十年ほどの結婚生活を送 り、台湾の親族や知人ともすべて中国語か台湾語でしたし、すでに廃校となった静岡市の富士国際日本語学院では主に中国からの就学生に、日本語を教えるだけ でなく、生活指導や様々な場面での通訳を担当してきました。

自分自身が苦労して外国語を習得した経験がありますので、正規の日本語教員として外国人に日本語を教える上でも、様々な経験を生かすことができましたが、それにも増して役に立つのは、言語学の知識です。

たとえば、言語学には音声学という、発音に関わる分野がありますが、これがわかっていないと発音指導はできません。

日本人として、当たり前に日本語を習得して暮らしていますと、最も基本である母音「あいうえお」の発音が、厳密にどんなものであるのか、それを客観的に説明するということができませんが、音声学ではそれを科学的に検証します。

日本語には「あいうえお」の5つの母音があります。というのもさも、当たり前のことのように思われますが、古くからの東北弁や、鹿児島以南の諸方言には5つもありません。

たとえば、「涙(なだ)そうそう」という流行歌に「うちなーぐちバージョン」というのがあります。よく聞きますと、「あいうえの」のうち、「え」と 「お」が全く出てきません。 その「うちなーぐちバージョン」の歌詞カードには「ど」など出てくるのですが、ちゃんと聞くと「ど」ではなくて、「どぅ」と発音しています。ちなみに、 歌っている夏川りみさんは、石垣島の人です。

「あいうえお」より母音の少ない方言もあるのが日本語ですが、「あいうえお」とは別の母音を持たないのも日本語です。

ところがこれが外国語となりますと、もっとたくさんの母音があるということがよくあります。例えば、私たちが中学1年生から習ってきた英語ですね。 「アップル」の「ア」と「ファザー」の「ァ」は別の「あ」ですし、「アンクル(おじ)」の「ア」もまた別の「あ」ですから、これだけでも少なくとも3つの 異なる「あ」があることになります。

さらに「かさたなはまやらわ」といった音の頭に発音される子音となると、もっと複雑な違いがあって、日本の中学や高校の先生が子供たちに英語の発音 をしっかり覚えさせることは不可能に近いという話になるかもしれません。事実、英語がぺらぺらの日本人でも、発音を完璧にできるという人はかなり少ないは ずです。

私たち人間は、世界中に住んでいて、それぞれにいろんな言葉を使って暮らしています。同じ人間ですから、ついている唇や舌、歯の形や数は同じはずな んですが、人間の口というのは、母音ひとつとっても非常にたくさんの異なる音を発音することができるようになっています。それを言語ごとにカテゴライズ (区分け)して、このへんの母音からこのへんの母音まではひとつの母音として括る、このへんからこのへんまではこの母音ということで括る・・・というよう に、音を相対的に区分けして互いに異なるものと認識しています。

そのようなわけで、日本語では、「アップル」の「ア」、「ファザー」の「ァ」、「アンクル(おじ)」の「ア」は、どれも同じ「あ」ですが、英語では違うということになってくるんですね。

子音では例えば、「イングリッシュ」という時、私たち日本人の発音は、英語の人たちには「ENGRISH」と聞こえるそうです。本当は 「ENGLISH」と、「L」なんですが、それが「R」に聞こえるというわけです。それが面白いことに、「ENGRISH」という、新しい単語も英語には ありまして、「日本人がよく使う間違いだらけの英語」という意味になっています。日本人には「L」も「R」も同じ「らりるれろ」の子音ですから区別するの は難しいことですね。

さらにお隣の韓国語や中国語には、濁音というものが基本的にありません。

「がぎぐげご」などの濁音というのは、私たち日本人の耳には「濁った音」と認識されるものですが、それを音声学的に説明しますと、「その子音を発音するために声を必要とする音」ということになります。

試しに、ひそひそ話のように、声を出さずに「知事(ちじ)」と言ってみてください。するとどうしたわけか、どうがんばっても「ちち」としか発音できません。これは「ぢ」や「じ」で表記される子音には、声が必要となるためです。

日本語の清音・濁音のような違いは、中国語や韓国語にもあるんですが、中国語や韓国語の場合は、声を必要とするかどうかという違いではなくて、発音 する時に息を出すか出さないかという違いになります。息は出しても出さなくても、日本語からすれば「清音」なんですね。ですから、中国語や韓国語には、基 本的に濁音がないということになるわけです。

韓国語は、文法的には日本語に近い言語ですが、音韻は中国語に近い言語だということになります。

今回は発音のことにだけ少し触れましたが、単語の意味の違いのことなど、外国語と日本語の違いについては、話し出すときりがないくらい、たくさんの違いがありますね。

違いというのは、知れば知るほど面白いものです。私はそれが面白すぎて、国際結婚までしてしまいました。

2008/11/19 水曜日

大国ならでは。同国人どうしの衝突事件。

カテゴリー: 海外の事情 — admin @ 22:06:37

寒くなりつつあったある秋の夜、富士国際日本語学院に来ていた中国人の就学生にあった話です。中国人どうしだし、年齢も近いからと同室になってもらっていたんです。一人は黒竜江省の男子学生、もう一人は広東省の男子学生でした。

ところがその学生寮で、広東省の学生が怒って包丁を持ち出すという大げんかになってしまいました。

けんかの原因は窓の開け閉めのことでした。黒竜江省の学生が、寒いからといって窓を閉めたがったんですが、広東省の学生は窓を閉め切るのをどうしても許さなかったんです。それで衝突して、あわや流血騒ぎかというところまでいってしまいました。

黒竜江省というのは、中国東北地方、かつては満州でもあった寒いところですね。一方の広東省は、ご存じかと思いますが、南の暑いところです。

私たち日本人一般の常識で考えると、暑いところから来た人は寒がりで、寒いところから来た人の方が寒さに強いんじゃないかと思ってしまいます。です から、暑いところの広東省の学生が窓を閉めたがるのならわかるんですが、実際はその逆、広東省の人は窓を閉め切るのが嫌いなんです。同じように、台湾の人 もそうです。窓を閉め切っていると「空気がなくなる」といって、息苦しく感じるのが暑いところの人々です。

寒いときは窓を閉めれば温かくなるわけですが、暑い国の人々というのは、寒さへの恐れというものを持ち合わせていないんです。一年で一番寒いときで も摂氏10度以上は十分ある広東省や香港、台湾の人々は、窓を開けておいて凍えたという経験がありませんから、一年中窓を開けていても全然平気で生きてい ます。ですから、締め切って息苦しいと感じることはあっても、開いていて凍えそうだと感じた経験がないわけです。

窓を閉めて温かくしたいと考えるのは、暖かい国の人ではなくて、寒い国の人なんですね。

暑い国へ行って、冷房が効きすぎていると感じた経験のある日本人も少なくないと思います。温度調節にはいたって神経質な日本人にとって、冷房の効き すぎというのはつらいものですが、暑い国の人は、冷房は効けば効くほど良いとでも思っているのか、がんがん効かせてくれたりします。それもやはり、寒さへ の恐れというものを知らない人々だからなんですね。

2008/11/18 火曜日

違いを楽しみたいものです。

カテゴリー: 文化の違い — admin @ 0:58:51

麻生首相が、バラク・オバマ次期大統領と電話したんだそうで、その感想を麻生さんが「知的な英語を話す。」とか言ったそうですね。

黒人を評して「知的」ということは、アメリカでは即、差別発言になります。麻生さんはそれを知らなかったようで、ちょっと先の危ぶまれる発言だったわけですね。

オバマさんがアメリカ大統領に就任するのが来年の1月20日。それから先、麻生さんがいつまで総理大臣でいられるのかわかりませんが、本人は純粋に褒めたつもりでも、まったくの正反対に「差別した」と受け取られたら大変です。

真意は決して差別などではありません、そんなつもりは毛頭ございませんでしたと、本当の気持ちを伝えることができればそれで良いのかというと、そんな弁解をしないですむように、最初から発言に気をつけるのが一番良いことであるのに変わりはありません。

異国、異文化、との付き合いは、言語の違い、社会の違い、歴史的背景の違いなど、学ぼうと思ったら気が遠くなるようなたくさんの問題がありますから、トラブルを起こさないようにするのも大変です。

そんなにいろいろ知ってるわけがないから、外国人との付き合いなんて自分には無理、と、やる前からあきらめてしまうのも悲しいことですから、最低限どうしたらいいかを心得ておきたいものです。

まず何よりも、違うことを前提とすることでしょう。

違うことというのは、先に書きました通り、言語の違い、社会の違い、歴史的背景の違いなど、違うことだらけだということです。私たちは日常、日本人 どうしであれば、同じことを前提にした言動をとっています。日ごろ接する相手のほとんど全員が日本人ですから、日本人として当たり前のことをすべて前提と して行動し、発言しています。ところが外国の人が相手だと、その前提が通じないということです。

どんなことが日本の当たり前で、その当たり前が世界に通用する常識なのか、通用しない常識なのか、そういったことを学ぼうという姿勢がまず必要になるのではないでしょうか。つまり、私たち日本人が、日本人自身のことを学ぶということです。

例えば、誰かが待ってくれているとき、日本人なら小走りに走るなどして、相手を待たせようとはしていないんだという態度を見せます。これは日本人と して当たり前のマナーでもあります。ところがこのマナーを、外国の人に要求するのが無理なこともあります。こっちが待っているのに、悠然と歩いてくる外国 人がいたとき、私たち日本人は、その外国人が無礼な人だと感じるかもしれません。腹を立てる人もいるでしょう。ところが当の本人には、失礼だとか無礼だと か思われるような行動をとっているつもりが全然ないのだとしたら、そこに文化の違いによる衝突が起こってしまうわけです。

以前筆者が教務主任を務めた日本語学校に、初めてバングラデシュからの学生が入ってきました。彼の態度というのも、日本人一般から見るととても変わって見えるものでした。

生活指導などでこちらが説明をして、理解できましたか?と問うと、彼は微笑んで首を横に振るんです。首を横に振るというのは、「理解できない」とい う意味だとしか思えないわけですが、彼のその意思表示は、「理解できました」という意味なんですね。でも日本での生活では、その首の振り方は通じません し、逆の意味にとられてしまいますから、大変かもしれないけど、首はたてに振るようにしてくださいと指導しなければなりません。

首を振るというのも、言葉の違い同様に、表現方法の違いです。同じ動作でも、文化によって意味が変わることがあるわけです。ですから、「それじゃあ意味がわからないよ!」といって腹を立てるわけにもいかないんですね。

様々な局面で効率を追求するのも、私たち日本人の当たり前ですから、首の振り方が変だという、非効率きわまる外国人に腹が立つこともあると思いま す。待たせているのに歩いてくる外国人にも、やはり腹が立つかもしれません。しかしそれでは外交問題に発展しかねませんから、腹を立てるのだけは、なんと しても我慢しなければなりません。

それよりも、そうした違いを知ることは、トリビアの泉のように、なんとも楽しいことでもありますから、違いを見つけてやろうという好奇心をもって、違うことを楽しむ姿勢があったら、外国人との付き合いは、とても楽しいものになるのではないでしょうか。

2008/11/9 日曜日

「相互理解」で理解すべきことは?

カテゴリー: 日本の近代史 — admin @ 1:49:03

日本は明治維新以降、西欧列強となんとか肩を並べようと必死でやってきました。それには江戸時代からの、公衆道徳や高い識字率が大いに役に立ってい て、明治になるよりも前からすでに、世界に誇れる社会を築いてきていたと見ることができると思います。いろんな面で、日本は優れた社会と個人から、強い国 家を建設するだけの強さをもっていたわけです。

もちろん同時に欠点も併せ持ってはいましたが、総じて強く、総じて様々な水準が高かったというのが私たちの日本です。

一番の強さは、何をやるにしても反省材料を得やすいよう、論理的判断を大事にすることかもしれません。単に場当たり的なその場しのぎの考え方は嫌っ て、ものの道理というものに長じることや、人から信頼される嘘のない生き方を尊ぶところは、他のどんな国にも負けない日本の美点ではないでしょうか。

そのように、確かな美点、間違いない強さというものを、大昔から日本人はもっていました。

アメリカでは、大震災などありますと、壊れた商店などから物を盗む人が大勢出て困るようですが、日本ではそのようなことはほとんどないといわれてい ます。自然災害を常に経験してきた智慧からの行動でしょうけれども、大きな被害が出ればみんなで助け合うというのが日本の当たり前です。

思えばこの「当たり前」が優れているとも言えるのかもしれません。その優れた「当たり前」については、日本の人々は特に口にするでもなく、また、それを法律とするでもなく、みんながわかっている暗黙の前提としてきたわけです。

ところが明治以降、台湾を植民地とし、朝鮮半島を併合し、また中国各地や南方の国々へも進出していって、文化も言葉も違い、「当たり前」も大きく異なる人々と一緒に暮らさなければならなくなりました。

来てくれといわれて行ったのではなくて、日本が一方的な「善意」や「策略」で出かけていったのですから、「郷に入っては郷に従え」といわれる通り、 アジア諸国それぞれの当たり前を学んでそれに合わせれば良かったんでしょうけれども、私たちの父祖は日本の「当たり前」こそが本当の当たり前であって、ア ジア諸国の人々の生き方や考え方には問題があると考えました。

当時の新聞を読んだり、雑誌や小説を読んだりすると、上記のことが事実であるとわかると思います。

まあ確かに、災害で助け合えるぐらいですから、日本の当たり前は優れていたのかもしれませんが、だからといって、外国の人々を軍隊で支配したよそ者 が、町のあちこちで現地の人々に「馬鹿野郎!」と怒鳴りつけて良いはずもありません。それより先にやるべきことがあったはずです。

やるべきこととはつまり、まずは説明することだと思います。どうしてそれがいけないことか、どうしてそうするのが正しいか、良い悪いの基準はどこに あるかといった、日本人の美点を外国人にもわかるよう論理的に体系化して学問とし、法律とすることでしょう。何よりもまず、それがしっかりできていなけれ ば、現地の人々をいきなり叱りつけるなんてことはできないはずだったんです。原則がどこにあるか、その原則に照らして、その行いはどう判断されるか、審判 されるか。そういった原則こそがなによりも重要で、原則の周知を徹底してこそ、支配者も被支配者も同じ原則で、共に納得して裁かれることも可能になるわけ です。

もちろん日本もそれをやったと、一部の歴史学者は主張するかもしれませんが、私たちの父祖がそんなに論理的な人たちだったとはちょっと思えません。 諸外国で現地の人々に嫌われたのは、一部の官憲などの権力者たちです。乱暴な物言いで、現地の人々をいたって低く見ていた日本人です。

いつの時代にも、文化の異なる外国人と付き合っていくには、互いの原則がどこにどうあるかを理解し合うことが必要です。「相互理解」と口で言うのは得意でも、いったい何を「理解」すべきなのか、実は全然わかっていないというのが常だったりします。

何を食べるか、どんな歌を歌うか、どんな家に住んでいるか・・・。もちろんそれも「理解」の対象かもしれませんが、共存していく上で必要な知識としては、どれも表面的なことでしかありません。

本当に必要な理解とは、どんなことを笑うか、どんなことに怒るか、どんなことを誇りにしているか、どんなことを恥と感じるかといった類の、民族や文化の根幹部分にある精神面の理解でしょう。それが理解できなければ、戦前から続く不幸な衝突がなくなることはないでしょう。

2008/11/2 日曜日

取り返しのつかぬ過ち 『オモチャ箱 シリーズ第3話 絵本1936年』

カテゴリー: 日本の近代史 — admin @ 10:17:34

まずこちらをご覧いただきたいと思います。

YouTube にある 『オモチャ箱 シリーズ第3話 絵本1936年』

昭和11年(1936年)J.O発声漫画の制作による『オモチャ箱 シリーズ第3話 絵本1936年』なる動画作品である。

見終わって暗澹たる気持ちに陥ったのは筆者だけではあるまい。

まず、作品の質において甚だ水準低し。企画、構成、キャラクターデザイン、アニメーション技術、声優に至るまで、作品それ自体としては見るべきものなしと判ぜられる。

しかしながらこれを8年後公開の昭和19年(1944年)『桃太郎 海の神兵』に至った国家的価値観の根源と見るならば、資料価値としてかくも得難き資料も比類なきものと得心せるものである。

いささか怪しい戦前調の文体はこれくらいにして、以下は普通に書くことにします。

南の島、これは『桃太郎 海の神兵』においても重要な舞台として使用された日本軍の占領地です。その地において、現地住民を意味する動物たちなどに、「日本文化」をもって歌や踊りを楽しむ風景が、さも当然のこととして展開します。

ここにこそ、私たち民族ならぬ私たち日本国の主権者がかつて到達した国家主義的思想に基づく疑いなき善意と、他民族・他文化にとって迷惑甚だしい人道主義を垣間見ることができるわけです。

国家主義、軍国主義という思想は、私たち日本人の生活や経験とは無縁のものであることに注意しなければなりません。さらに言えば、あらゆる「思想」が、人心を生活道徳から乖離させる元凶となりうる危険なものであることも認識をおくべきところでしょう。

かつて私たちの父たちや祖父たちは、その認識を持たなかったというのが事実であろうと考えるところです。そのような無意識、そのような「人道主義」によって、「思想」を尊きものと信じて疑わぬ少年たちを育成してきたことは、大日本帝国最大の過ちであったと見ることに異論はないはずです。

「大日本帝国」とは即ち、上記のように、私たちの素朴な心に、その生活とは無縁の価値観や慢心をもたらすための「思想」そのものであったともいえるのではないでしょうか。

戦後継続して行われてきた謝罪外交とは、かつての植民地支配や侵略といった、形式に対するものであってはならないと考えます。 形式や、行為そのものではなく、その行為・形式に至った「思想」こそが、異文化に生きる人々への迷惑の根源だったからです。

よりわかりやすい概念として、共産主義、社会主義、そして帝国主義といった思想は、問題が多すぎるために否定されているというのが、現代、世界の常識ですが、もし私たちの国において、日本の周辺諸国に対する優越感を自ら疑うことのない無意識的「思想」が生き続けているとすれば、私たちはそれを意識の表に引き出し、議論の俎上に載せて、真に有効な改善へと歩むべきではないでしょうか。

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