2009/3/14 土曜日

外国語習得の近道

カテゴリー: 外国語 — admin @ 15:50:38

「日本語は、日本語で生まれ育っていないと難しい言語だ」という意味で、「日本語は外国人には難しい」ということをよく耳にします。事実その通りということもありますが、そうとも言い切れないという面もあるようです。

まず、難しいのは「日本語だから」ということではないでしょう。英語も大変に難しい言語です。「英語は簡単な言語だ」という意見をインド人から聞いたことがありますが、それはもしかするとそう言った彼が頭が良すぎるのか、あるいは、彼の母語(母国語)が、英語を習得しやすい言語だからということもあるんでしょう。

難しい外国語と、それほどでもない外国語があります。筆者は日本で生まれ育ったので、日本語が母語です。日本語が母語ですと、よくいわれるのは、韓国語ならそれほど難しくないということ。そして筆者が実際に習得してみて、中国語も決して難しい言語ではないということです。しかし英語は、学校で勉強する程度や、特定の職業の特定の状況だけで決まった言葉ばかりを使う程度ならともかくとして、実際にイギリスやアメリカの一般的な英語社会で通用するレベルまで習得するのは大変なことです。

逆についてはどうでしょうか。日本語を学習した韓国人は、概ね日本語が上手です。同じ時間を日本で過ごしていれば、台湾人より韓国人の方が日本語が上手になるようです。いろいろな国の人々の日本語教師を担当してきた経験からも、台湾人には日本語はかなり難しい言語のようですが、韓国人にはそれほどでもないように思われてなりません。

だったら台湾人はみんな日本語が下手かというと決してそんなこともなくて、戦前に日本語教育を受けてきたご年配の方々、たとえば元総統の李登輝先生の世代の方々は、皆さん日本人以上に日本語が流暢です。少なくとも、日本の若い人たちの平均的な日本語運用能力に比べますと、日本統治時代を経験してきた日本世代の台湾人の方が日本語が上手ともいえるかもしれません。

筆者が日本語教育を担当してきたのは、主に戦後生まれの台湾の人たちですが、日本人より上手と思えるような人はほとんどいませんでした。筆者の知る限り唯一の例外は、ようこそニッポンどっと混むのスタッフでもある陳さんです。台南出身の彼女の日本語は本当に見事なもので、話し言葉にしても書き言葉にしても、日本の社会人としてお手本にもなりそうなレベルです。もう長いお付き合いですが、初めて彼女を知ったときには、台湾の若い人にもこんな人がいたのかと驚いてしまいました。

いずれにしましても、日本語を取得しやすい母語と、そうでもない母語というのがあるのは確かなようですね。それには、母語というものが、そもそもどのようにして習得されるのかということを理解する必要もあるでしょう。

日本語が上手になれない人々に共通しているのは、「てにをは」といった助詞の部分が、どうしても使いこなせない点があります。これを世間の日本語研究では、首をかしげたくなるような複雑な理屈で説明しようとします。誰でも見たことのある例としては、辞書に載っている説明です。

『大辞林』における助詞「に」の説明:格助詞。上代から用いられている語で、動作・作用が行われ、また存在する、時間的・空間的な位置や範囲を示すのが本来の用法

これを読んでぴんとくる日本人はいないはずです。そもそも「格助詞」という概念からしてよくわかりません。学校の文法の授業が面白かったという人がほとんどいないということこそが、否定しようのない事実なのです。つまりそれほどまでに「文法」は役に立たないということなのです。どうしてそんなに役に立たないかといえば、研究されてきている「文法」なる学問が、根本的に間違った学問だからなんでしょうね。現実に、そうした「文法」は人工知能の役にも立ちません。子供たちや外国人に日本語を正しく習得させる役にも立ちません。むしろ日本語学習には有害なしろものでしかないという厳しい事実もあるのです。困ったものです。

自分の母語を社会人として使えるレベル、つまり大人として言葉で生活するようになってくると、それまで使っていない外国語を学習するのが困難になってくるという事実もあります。その原因として、母語の能力というのがすなわち思考能力になってくるということがあります。母語で思考することを、今度は別の外国語でも思考できるようにするというのは、ちょっと考えたら気の遠くなるようなことです。

それに対して、まだ思考能力が完成していない子供たちなら、複数の言語により思考できるようにもなります。子供のうちから外国に住めば、その国の言葉と、お父さんお母さんの言葉との両方が、かなりの短期間でもおぼえられます。

思考というのは、「てにをは」などの、意味はないけどなくてはならない単語を駆使しておこなうものですから、それが習得できるということが、その言語での思考能力を習得できるということです。では、私たち日本語を母語とする日本人は、「てにをは」をどうやって習得したのでしょうか?

先に見ていただいたような「格助詞うんぬん…」という「文法」を理解して習得した人は、私たちの中にひとりとしていません。むしろ学校で「格助詞」などという見知らぬ概念を強要されたときには、私たちのほとんど全員が違和感をおぼえたり、拒絶したりしたわけですから、「文法」など不要であるばかりか、正しい日本語にとっては敵ですらあります。

その「文法」を下地として、外国人向けに日本語の教科書が編集されていたりします。そんな教科書で日本語が習得できるはずはないわけですから、「外国人にとって日本語は難しい」ということになってしまいます。

一方で、そんな教科書とは無縁で、日本人の彼女や彼氏ができて、毎日日本語を聞いて生活していたという人は、そろって日本語が上達します。また、恋人や家族はいなくても、日本語という環境の中にひとり身を置いて生きていれば、おのずと日本語は習得できます。いずれのケースでも、恋人や周りの日本人は「文法」など無縁で暮らしていますから、誰も「てにをは」といった文法の解説などしてくれません。つまりそれが一番の近道であるというわけです。

筆者自身の経験でも、台湾でexワイフと付き合いはじめて急速に中国語が上達したように思います。彼女の家族とも付き合いがはじまって、今でも付き合いは続いていますが、それが一番の良い環境になりました。もしそうしたことがなくて、ただ台湾の中国語学校で学習しただけだったら、こんなに中国語ができるようにはならなかったはずです。

「外国語習得の近道」という題で書いてみましたが、「文法批判」のような内容にもなってしまいました。民間の日本語学者のひとりとして、また、家族を含めての日本語教育に深く携わってきた者として、世間一般に行われているような「文法」という学問が、その方向性においても有用性においても、根本的に間違いですよということを叫ばずにはいられません。それほどまでに、「文法」というのは奇怪な学問だということです。

私たち日本語で暮らしている者にとっても、外国語学習というのは、いかに文法から距離を置くかというのが重要な課題になると思います。「過去形」「過去分詞」といった「文法」や、辞書に載っている「意味」ばかりにとらわれていると、一生かかっても外国語は習得できないということになってしまうでしょう。

今度日本の高校で、英語の授業は英語だけでおこなうという教育方法の転換がはかられるそうです。私立の学校などではすでにおこなわれていることでしょうけれども、一番重要なのは、1:外国語  → 2:日本語 という順番をおこなわないことだと思います。

というのは、外国語を日本語で理解しないということです。はじめに外国語を与えられて、意味がわからなかったら日本語に訳して理解する、という順番は、外国語習得の方法としては全然役に立たないといわれているんですね。

その順番はむしろ逆にして、はじめは日本語で考えてもいいけど、最後に外国語をもってくる。そしてその後は、また日本語に訳すということをしないようにします。そこでぐっとこらえるわけです。そうすることで、外国語の能力が次第に身についてくるのです。この方法というのがつまり、外国語で考える力を身につける方法にほかなりません。

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