2009/1/20 火曜日

世界の価値観に大きな変化が訪れる年になるでしょうか。

カテゴリー: 海外の事情, 経済危機 — admin @ 9:20:18

きょう2009年1月20日は、アメリカ合衆国大統領の就任式(Inauguration)の日です。

衣食足りて礼節を知るといいます。人種問題にもそれは大きく関係しているようで、白人の、特に裕福ではなく、特に取り柄のない人々にとっては、自分 たちが優れているとすればそれは白人であることであって「有色人種」ではないからだという思想に頼ることは、ひとつの安易な生き方として、まだ根強く残っ ていたりします。これが人種差別主義の本質ではないでしょうか。

かつて大ブレークしたアメリカのテレビドラマ『ルーツ』では、マーロン・ブランド演ずる白人至上主義者が「黒人にある知性は全て白人との混血のおか げだ」という発言をしました。まったくひどい話ですが、黒人には知性がなく、事実IQが低いというような、大いに怪しい統計も、ごく一部の人々に支持され ているようです。

「これこれこういう事実がある、だから自分たちの主張は正しい」という論法はどこにでもありますが、その「事実」は、主張を正当化するために用意さ れたものであることがよくあります。「用意された」というのは、その「事実」を必死に探し求めて、なんとか見つけてきて、その「事実」だけを大きく取り上 げることです。しかもその「事実」は、全ての人に認められる真実とは限らないのです。

きょう、バラク・フセイン・オバマ・ジュニアという名の、アフリカ人の血を引く新しい大統領が就任するわけですが、この事実、つまり黒人がアメリカ大統領となりその4年の任期を務めようとしているという事実には、どこにも異論の差し挟みようがありません。

志のある黒人の先駆者たちが公民権運動に命を捧げてきましたが、オバマ大統領の就任が、その流れの延長にあるのかどうかはよくわかりません。とはい え、黒人が常に味わってきた劣等感を払拭する大きな契機となるのは確かでしょう。ここに大きな価値観の変化が訪れることは間違いないと思われます。

また北米大陸では、アメリカ・カナダ・メキシコの3カ国による通貨統合があるという噂もあります。オバマ大統領が就任式でそのことに触れるのではないかとも噂されています。

アメリカドルという、世界の基軸通貨がその地位を退いて、新たな経済の枠組みに加わるということがもしあるとすれば、それも大変な価値観のシフトとなるのかもしれません。

噂は噂であって、実際どうなるのかわかりませんが、百年に一度といわれる経済危機によって、新しい価値観を作り出さないではいられない状況にあるのは確かでしょう。

2009/1/10 土曜日

思想の違いについて。

カテゴリー: 文化の違い — admin @ 19:31:04

政治思想による対立といえば、かつての東西冷戦ですが、現在の南北韓国の対立も、そもそもは政治的な対立であり、政治的な支配権が二手に分かれての 対立でした。今では単に北朝鮮(北韓国)の、政権というより王朝とでも呼ぶべき世襲制の独裁政権が、韓国や米国のみならず世界の多くを敵に回してまで頑な にその姿勢を改めようとしないことで対立が続いています。韓国の側としてみたら、言語や文化を共有する同じ民族ということでいくらでも親近感が持てるんで すが、北朝鮮の独裁政権がそれを許しません。韓国は民主国家としていつでも北朝鮮との対話を歓迎する用意があるわけです。

民主主義が当たり前の世の中に暮らしておりますと、なにが悪いといって、民意を無視したり民意と対立したりする政治が悪いのは明らかであると誰でも知っています。

ではどうしてそのような対立が起きてしまうのか、簡単に結論をいえば、それは思想であるということになります。

かつての日本も、帝国主義という思想に支配され、万世一系の皇室伝統を神聖で冒してならないもの、絶対的なものという思想をなによりも大事にしておりました。ここにも周辺諸国との対立の大きな原因を抱えていたわけです。

現代でも皇室を大事にすることは国民の総意となっておりますが、これをもって諸外国から訪れる要人に対して、天皇陛下が一番偉くて、外国の元首や大 統領はそれと対等ではない、それ以下だ、というような思想をもって外交をやっていたら、日本は世界中から嫌われてしまいます。ですから、とにかくそんな 「思想」は決して表に出さないことというのが重要になってきます。

中東では、年末からガザ地区へのイスラエル軍の侵攻とハマスの抗戦が続いています。イスラエル軍というのは、パレスチナ人であれば女性や子供でも殺 すんだそうで、それに対抗するためにパレスチナの女性がお腹に爆弾を巻いてイスラエルのバスを爆破するという、かつての神風特攻隊のような自爆攻撃をやっ ています。今のハマスはロケット弾を撃ち込んでいるそうですが、そのような自爆攻撃は「テロ」とされ、アメリカのブッシュ政権などもパレスチナを非難して イスラエルによる女性や子供の殺戮は養護してきました。

いよいよ今月20日からオバマ政権が始まりますが、まさかブッシュ同様にイスラエルを一方的に支持するといった態度は取らないだろうと世界が期待を寄せています。

ともかく、こうしたイスラエルとアラブ諸国の対立も、思想の対立です。ただし東西冷戦のような政治思想の対立ではなくて、宗教思想の対立ですね。

古い方から見れば、まずユダヤ教という宗教があります。ユダヤ教は旧約聖書の内容で理解することができますが、語弊を恐れず要約すれば、イスラエルの民だけが神に選ばれた良い民であるという思想、ということになるでしょうか。

それに対してイスラム教というのは、ムハンマド(マホメット)という人が始めた宗教で、この人は自分の宗教思想を広めるために戦争をやってきた人で すね。イスラム教には穏健派の人たちも多く、必ずしも好戦的ということはないんですが、その宗教の源流を見る限り、自分たちの宗教的な立場を守るためには 異教徒を殺すことも辞さないという思想がはっきりと存在します。

ちょっと科学的な物言いを許してもらうなら、仮に神というものが存在するにしても、特定の個人を選んで神の代役や使者を務めさせるということを神がするものなのかどうなのかという疑問があります。

人間は誰でも不完全な存在であることに異論はありませんが、人間が不完全であるのなら、特定の誰かが周囲の人々から完全な存在と認められて神格化さ れるということもあるでしょう。宗教の興りには、そのような神懸かり的な人格が存在したということでもあるんだろうとは思います。しかし、人間は人間で あって、神様ではありません。神様ではない人間の言葉を記録して、これが神様の言葉だと考えたり、信じ込んだりすることがありますが、それこそが思想なん ですね。

思想が世界中で等しく共有されれば、それはそれで世界は平和に治まるのかもしれませんが、有史以来を見る限り、そのような例は一度としてありません。どんな思想でも必ず対立を生んできました。

人類共存の最大の敵というものがあるとして、それを一言でいうなら、対立そのものであるということもできますから、対立の原因を作り出す物事の全てが、人類の敵であったり、敵となりうるものであったりすると見ることに間違いはなさそうです。

そんなわけで、思想は常に対立の原因であり、共存に反する危険な代物でありうるというわけですね。

ですから、世界の人々と共存して暮らすために必要なこととはつまり、対立を避けること、共感を持ち、増やすことであるということになります。そのためには、特定の思想に固執したり、特定の思想や文化を排除したりすることだけは、なんとしても避けなければなりません。

日本と違って他民族、他文化共存で成り立っているアメリカ合衆国などには、そのあたりの経験と知恵がふんだんにありそうです。もっとも治安は日本の 方が良かったり、アメリカにもいまだに人種差別主義という思想が一部に残っていたりもするようですから、アメリカが完成された形であると見ることもできま せんが、きっとたくさんの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

2009/1/7 水曜日

イギリスの王室と日本の皇室。そして韓国や中国の正史(=独自の歴史観)。

カテゴリー: お国事情 — admin @ 23:11:30

イギリス(United Kingdom)という国は、早くから成熟社会と自他共に認められる王国です。筆者にもイギリス人の友人知人が少なくありませんが、彼らと接していると、日本も成熟した先進国ということにはなっているけど、イギリスに比べればまだまだだなと思わされることが多々あります。

ひとつひとつについて詳しく話し出すときりがありませんので、ほんの少しだけ、例を挙げてみたいと思います。

例えば「出生地主義」という国籍に関わる法律の取り決めです。

日本では、外国人が日本で出産しても、その赤ちゃんに日本国籍が与えられる条件とはなりません。つまり、日本で産声を上げたからといって、日本人になれるとは限らないわけです。

それがイギリスやアメリカでは、国内で生まれた子供には国籍が与えられます。

もちろん、親の国籍を選択することもできますから、その子がイギリス人やアメリカ人になるとは限りませんが、イギリスやアメリカでは、国内で生まれた子供に自国の国籍を与えますよという法律になっているわけです。

日本では、皆さんもご存じの通り、そのような「出生地主義」の法律はありません。日本人の父親の子にもなかなか与えられなかったわけですが、最近やっと、(これもまだいろいろ問題はありそうですが)父親が認知すれば日本国籍が与えられるようになりました。

出生地主義のすごいところは、親が子供の国籍を選べるところです。例えば、フランス人やポルトガル人が、自分の子供をイギリス人にしたいと考えたら、とりあえずイギリスに住んで、そこで出産すればよいわけです。

実は、イギリスも含めたヨーロッパの王室というのは、あちこちの国の王室が、他国の王室と親戚だったりもします。

そんなイギリスの王室、エリザベス女王ですが、イギリスの王室のすごいところは、歴史学に照らしてまったく作り話や歴史のねじ曲げがないところだと思います。

まず、イギリス国歌は、「女王陛下に神のご加護を」というやつですが、イギリス国教のトップにある女王が、ちっとも神聖な存在とは思われていないんですね。

まずそこが、日本の皇室とは大きく異なります。

日本で皇室を神聖なものとして祭り上げたのは明治維新なんですが、皇室の「歴史」とされているものには、神話が含まれています。

ヨーロッパで「神話」といえば、ギリシャ神話、ローマ神話など、これは明らかにお伽噺か何かだろうというような内容です。というと言葉は悪いかもしれませんが、要するに科学的でないということです。歴史学、社会学、人類学・・・その他に照らして、ちっとも普通ではないとういうことですね。

同じように、日本の神話も不思議なお話ですね。なにしろ生物学的にあり得ないような生き物だって登場するんですから。

「8つの頭と8本の尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤で、背中には苔や木が生え、腹は血でただれ、8つの谷、8つの峰にまたがるほど巨大」(タマタノオロチ)

中国や韓国の歴史観が、歴史学の立場からは正確ではないということを以前にも書かせていただきました。現政権に都合の良い事実を採用し、また誇張して、都合の悪い事実については削除するという歴史観は、しばしば「捏造」という言葉をもって非難の対象ともなっています。

しかしそれは「捏造」という悪い概念で考えるのではなく、「正史」という、中国の歴代王朝がずっとやってきた、政権独自の歴史観というものであるということを書かせていただいたわけです。

一方で日本という国家は、明治政府以降の、天皇陛下をトップとする体制で成り立っています。

対米戦争で降伏して以来は、「大日本帝国」から「日本国」となり、天皇陛下の位置づけも「国民統合の象徴」ということになり、絶対君主ではなくなりましたから、戦前と戦後とでは政治体制が変わったことにはなりますが、国家体制自体はほとんど変わっていないんですね。

そしてこの国家体制を支えているのが、皇室の伝統です。その伝統は「神話」をもとにするものですから、決して歴史学的に正しい史実に基づいたものでなないのです。

このように、歴史学では説明できない、あるいは否定せざるを得ない「正史」というものが、私たちの日本にもあるわけです。

そのようなわけで、日本の「正史」が中国や韓国の「正史」と違うのは、ただ単に、国家体制が古いか新しいかの違いにすぎないとも見ることができます。

日本の国家は明治以降で100と数十年。さらに皇室そのものは2600年を優に超えているという「神話」によります。

中国や韓国は、それが戦後から始まっていますから、まだほんの数十年です。中国の毛沢東も、北朝鮮の金日成も、神格化されることがあるとはいっても、日本の皇室ほど現実離れした「神話」はありませんから、あくまでも人間であり、人類の歴史上、数ある偉人のひとりにすぎないわけです。

一方で、日本の天皇陛下というのは、偉人ではありません。もっと神聖視されることが多いというのが事実です。

というように見てきますと、日本も、中国も、北朝鮮も韓国も、どこも等しく、歴史学に照らして正常なる歴史観をもっていないことになるんですね。

以上の事実を踏まえて、イギリスという国を見てみますと、イギリスの王室には、歴史学者が否定するような「神話」はありません。

むしろもっと人間臭い歴史があるばかりです。

そもそもカトリックを抜けて英国国教になったのは、王様が離婚したからです。離婚を禁じているローマ法王庁との対立があったために、カトリックを脱退するに至ったんですね。ウィキペディアの記述を引用してみましょうか。

–引用開始–

ヘンリー8世はルターの宗教改革を批判する「七秘蹟の擁護」を著した功で、教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Defender of the Faith)の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であったが、後にキャサリン王妃との離婚およびアン・ブーリンとの再婚を巡る問題から教皇クレメンス7世と対立。側近であるトマス・クロムウェルの補佐を受け、1533年には上告禁止法を発布し、イングランドは帝国であると宣言し、教皇クレメンス7世に破門された。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイギリス国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱した。

Wikipedia日本語版より)

–引用おわり–

イギリスの王室の歴史というのは全体にこの調子で、なにもかもあからさま、あけすけになっています。つまり、歴史学者が首をかしげるような「神話」もなければ、日本や韓国にあるような「正史」もないのです。

* * *
(最新ニュース1:漢字を撤廃してきた韓国で、また漢字が見直されているそうです。漢字の読める韓国の子供たちも少しずつ増えているようです。)

(最新ニュース2:チタン製のゴルフクラブは聴覚障害の原因になるそうです。お心当たりのゴルファーの皆さん、耳栓を。)

2009/1/2 金曜日

「ひ」と「し」、さらに「き」の発音。江戸っ子言葉とドイツ語などヨーロッパの言葉。

カテゴリー: 外国語 — admin @ 9:32:50

あけましておめでとうございます。

きょうは「ひ」と「し」の発音について書いてみたいと思います。といっても、江戸っ子言葉の話ではなくて主にドイツ語などヨーロッパの言語の話です。

もちろん江戸っ子も「ひ」と「し」の区別ができないといいます。昔テレビで水原ひろしが「海はしろいな大きいな」と歌っていたのを思い出します。

同じようにドイツでも、「ch」 の発音というのが、人によってとてもやっかいな問題のようです。

筆者にも「Michael」という名の古い友人がいるんですが、フランス国境に近いところに住む彼は「ミシャイル」という発音で呼ばれています。

日本語のかな表記はヨーロッパ諸言語なら現地音によることになっていますが、ドイツ人の「Michael」の場合、通常「ミハエル」とか「ミヒャイ ル」などと表記されます。恐らくその「ハ」や「ヒャ」という発音が標準のドイツ語に近いということなんでしょう。さらにドイツ国内には、これを「ミカイ ル」または「ミカエル」と発音する人たちもいます。

ではいったい、筆者の友人はどうして「ミシャイル」と呼ばれているんでしょう。これには、日本語でも人によっては「ひ」と「し」が区別しづらいことと関係があります。

「し」:舌の前の方で呼気が摩擦する音

「ひ」:舌の後ろの方で呼気が摩擦する音

ごく簡単に説明すれば、「ひ」と「し」というのは、上のような違いになります。そしてドイツ語の場合も、これがおよその違いになります。

「シャ」:舌の前の方で呼気が摩擦する音

「ヒャ」:舌の後ろの方で呼気が摩擦する音

これはどちらも舌を上にそり上げて発音する音なんですが、これをさらに舌の後ろ(一番後ろ)で発音しますと、「摩擦」ではなく「破擦」となって、「カ」の音になってしまうんです。

ドイツの南部に、リヒテンシュタイン(Liechtenstein)という小さな独立国があります。公用語はドイツ語です。このリヒテンシュタインも、ドイツ人によっては「リシテンシュタイン」と発音されたり「リキテンシュタイン」と発音されたりするわけです。

ここにも少なくとも、3つの異なる発音があります。

「シ」:舌の前の方で呼気が摩擦する音

「ヒ」:舌の後ろの方で呼気が摩擦する音

「キ」:舌の一番後ろで呼気が破擦する音

「摩擦音」と「破擦音」というのは、音声学でははっきり異なる分類になるんですが、この場合に限っては、舌の前後どこで音を出すかという違いにすぎません。これは人によって些細な違いでしかなく、また前後のどこか1か所でしか発音できないという人も少なくないわけです。

このような「ch」で表される発音の違いは、ドイツ国内だけでも揺れていますが、さらにドイツの隣国に至れば、「カ」や「キ」で発音するのが当たり前の国があったり「「シャ」や「シ」でしか発音しない国があったりします。

2008/12/20 土曜日

食糧の時代

カテゴリー: 経済危機 — admin @ 19:33:01

経済学を勉強してきたわけでもないのでいい加減なことしか書けませんが、アメリカのバブルが完全に崩壊して、世界はどこへ向かうのか、先進各国で大変な事態となってしまいました。

これまで雇用問題では不安の少なかった日本も、派遣労働者に関わる法律が大企業の都合に合わせて改正され、いつでも首が切れる何万という派遣労働者が路頭に迷うことになります。

先進国は軒並みマイナス成長で、中国だけはまだ成長を維持するといいますが、その中国も工業化が進んで農業人口が減ってくれば、もっと深刻な事態に見舞われることになります。つまり食糧が足りなくなるということです。

今までは、高額の工業製品を購入するために働いてきましたが、これからは生きるための食糧にかけるお金の割合、いわゆるエンゲル係数がひどく増えていくのかもしれません。

実際、食糧自給率の低い日本では、実感として台湾などよりも食費の割合が高いと思います。台湾人の収入が日本の半分としても、日本人の食費は台湾人の4倍ぐらいはいくように感じられるのです。

しかも主食のお米が特に高いのは、日本のお米が高級品だからというばかりではありません。台湾は気候がよいので、一年に二度も三度もお米を収穫でき ます。日本はたったの一回で、さらに悪いことに、都市近郊などでは田んぼを潰してどんどん開発してしまいましたから、これから田んぼを増やすことも難しい のではないでしょうか。

贅沢な果物や花卉を栽培して利益を上げるための農業が盛んでしたが、もしこれから食糧そのものが貴重になるとすれば、カロリーの高い穀物やじゃがいもなどが一番儲かるという時代も来るんじゃないでしょうか。

私たち日本人は戦後の食糧難も忘れて、先進国だと有頂天になっていましたから、そろそろ罰が当たってもおかしくないのかもしれません。

2008/11/26 水曜日

外国語とはどんな言葉か?

カテゴリー: 外国語 — admin @ 21:39:17

筆者も静岡県警で中国語通訳の仕事をいただいたことがあります。台湾には二年半ほど住んでおりましたが、台湾人と結婚して十年ほどの結婚生活を送 り、台湾の親族や知人ともすべて中国語か台湾語でしたし、すでに廃校となった静岡市の富士国際日本語学院では主に中国からの就学生に、日本語を教えるだけ でなく、生活指導や様々な場面での通訳を担当してきました。

自分自身が苦労して外国語を習得した経験がありますので、正規の日本語教員として外国人に日本語を教える上でも、様々な経験を生かすことができましたが、それにも増して役に立つのは、言語学の知識です。

たとえば、言語学には音声学という、発音に関わる分野がありますが、これがわかっていないと発音指導はできません。

日本人として、当たり前に日本語を習得して暮らしていますと、最も基本である母音「あいうえお」の発音が、厳密にどんなものであるのか、それを客観的に説明するということができませんが、音声学ではそれを科学的に検証します。

日本語には「あいうえお」の5つの母音があります。というのもさも、当たり前のことのように思われますが、古くからの東北弁や、鹿児島以南の諸方言には5つもありません。

たとえば、「涙(なだ)そうそう」という流行歌に「うちなーぐちバージョン」というのがあります。よく聞きますと、「あいうえの」のうち、「え」と 「お」が全く出てきません。 その「うちなーぐちバージョン」の歌詞カードには「ど」など出てくるのですが、ちゃんと聞くと「ど」ではなくて、「どぅ」と発音しています。ちなみに、 歌っている夏川りみさんは、石垣島の人です。

「あいうえお」より母音の少ない方言もあるのが日本語ですが、「あいうえお」とは別の母音を持たないのも日本語です。

ところがこれが外国語となりますと、もっとたくさんの母音があるということがよくあります。例えば、私たちが中学1年生から習ってきた英語ですね。 「アップル」の「ア」と「ファザー」の「ァ」は別の「あ」ですし、「アンクル(おじ)」の「ア」もまた別の「あ」ですから、これだけでも少なくとも3つの 異なる「あ」があることになります。

さらに「かさたなはまやらわ」といった音の頭に発音される子音となると、もっと複雑な違いがあって、日本の中学や高校の先生が子供たちに英語の発音 をしっかり覚えさせることは不可能に近いという話になるかもしれません。事実、英語がぺらぺらの日本人でも、発音を完璧にできるという人はかなり少ないは ずです。

私たち人間は、世界中に住んでいて、それぞれにいろんな言葉を使って暮らしています。同じ人間ですから、ついている唇や舌、歯の形や数は同じはずな んですが、人間の口というのは、母音ひとつとっても非常にたくさんの異なる音を発音することができるようになっています。それを言語ごとにカテゴライズ (区分け)して、このへんの母音からこのへんの母音まではひとつの母音として括る、このへんからこのへんまではこの母音ということで括る・・・というよう に、音を相対的に区分けして互いに異なるものと認識しています。

そのようなわけで、日本語では、「アップル」の「ア」、「ファザー」の「ァ」、「アンクル(おじ)」の「ア」は、どれも同じ「あ」ですが、英語では違うということになってくるんですね。

子音では例えば、「イングリッシュ」という時、私たち日本人の発音は、英語の人たちには「ENGRISH」と聞こえるそうです。本当は 「ENGLISH」と、「L」なんですが、それが「R」に聞こえるというわけです。それが面白いことに、「ENGRISH」という、新しい単語も英語には ありまして、「日本人がよく使う間違いだらけの英語」という意味になっています。日本人には「L」も「R」も同じ「らりるれろ」の子音ですから区別するの は難しいことですね。

さらにお隣の韓国語や中国語には、濁音というものが基本的にありません。

「がぎぐげご」などの濁音というのは、私たち日本人の耳には「濁った音」と認識されるものですが、それを音声学的に説明しますと、「その子音を発音するために声を必要とする音」ということになります。

試しに、ひそひそ話のように、声を出さずに「知事(ちじ)」と言ってみてください。するとどうしたわけか、どうがんばっても「ちち」としか発音できません。これは「ぢ」や「じ」で表記される子音には、声が必要となるためです。

日本語の清音・濁音のような違いは、中国語や韓国語にもあるんですが、中国語や韓国語の場合は、声を必要とするかどうかという違いではなくて、発音 する時に息を出すか出さないかという違いになります。息は出しても出さなくても、日本語からすれば「清音」なんですね。ですから、中国語や韓国語には、基 本的に濁音がないということになるわけです。

韓国語は、文法的には日本語に近い言語ですが、音韻は中国語に近い言語だということになります。

今回は発音のことにだけ少し触れましたが、単語の意味の違いのことなど、外国語と日本語の違いについては、話し出すときりがないくらい、たくさんの違いがありますね。

違いというのは、知れば知るほど面白いものです。私はそれが面白すぎて、国際結婚までしてしまいました。

2008/11/19 水曜日

大国ならでは。同国人どうしの衝突事件。

カテゴリー: 海外の事情 — admin @ 22:06:37

寒くなりつつあったある秋の夜、富士国際日本語学院に来ていた中国人の就学生にあった話です。中国人どうしだし、年齢も近いからと同室になってもらっていたんです。一人は黒竜江省の男子学生、もう一人は広東省の男子学生でした。

ところがその学生寮で、広東省の学生が怒って包丁を持ち出すという大げんかになってしまいました。

けんかの原因は窓の開け閉めのことでした。黒竜江省の学生が、寒いからといって窓を閉めたがったんですが、広東省の学生は窓を閉め切るのをどうしても許さなかったんです。それで衝突して、あわや流血騒ぎかというところまでいってしまいました。

黒竜江省というのは、中国東北地方、かつては満州でもあった寒いところですね。一方の広東省は、ご存じかと思いますが、南の暑いところです。

私たち日本人一般の常識で考えると、暑いところから来た人は寒がりで、寒いところから来た人の方が寒さに強いんじゃないかと思ってしまいます。です から、暑いところの広東省の学生が窓を閉めたがるのならわかるんですが、実際はその逆、広東省の人は窓を閉め切るのが嫌いなんです。同じように、台湾の人 もそうです。窓を閉め切っていると「空気がなくなる」といって、息苦しく感じるのが暑いところの人々です。

寒いときは窓を閉めれば温かくなるわけですが、暑い国の人々というのは、寒さへの恐れというものを持ち合わせていないんです。一年で一番寒いときで も摂氏10度以上は十分ある広東省や香港、台湾の人々は、窓を開けておいて凍えたという経験がありませんから、一年中窓を開けていても全然平気で生きてい ます。ですから、締め切って息苦しいと感じることはあっても、開いていて凍えそうだと感じた経験がないわけです。

窓を閉めて温かくしたいと考えるのは、暖かい国の人ではなくて、寒い国の人なんですね。

暑い国へ行って、冷房が効きすぎていると感じた経験のある日本人も少なくないと思います。温度調節にはいたって神経質な日本人にとって、冷房の効き すぎというのはつらいものですが、暑い国の人は、冷房は効けば効くほど良いとでも思っているのか、がんがん効かせてくれたりします。それもやはり、寒さへ の恐れというものを知らない人々だからなんですね。

2008/11/18 火曜日

違いを楽しみたいものです。

カテゴリー: 文化の違い — admin @ 0:58:51

麻生首相が、バラク・オバマ次期大統領と電話したんだそうで、その感想を麻生さんが「知的な英語を話す。」とか言ったそうですね。

黒人を評して「知的」ということは、アメリカでは即、差別発言になります。麻生さんはそれを知らなかったようで、ちょっと先の危ぶまれる発言だったわけですね。

オバマさんがアメリカ大統領に就任するのが来年の1月20日。それから先、麻生さんがいつまで総理大臣でいられるのかわかりませんが、本人は純粋に褒めたつもりでも、まったくの正反対に「差別した」と受け取られたら大変です。

真意は決して差別などではありません、そんなつもりは毛頭ございませんでしたと、本当の気持ちを伝えることができればそれで良いのかというと、そんな弁解をしないですむように、最初から発言に気をつけるのが一番良いことであるのに変わりはありません。

異国、異文化、との付き合いは、言語の違い、社会の違い、歴史的背景の違いなど、学ぼうと思ったら気が遠くなるようなたくさんの問題がありますから、トラブルを起こさないようにするのも大変です。

そんなにいろいろ知ってるわけがないから、外国人との付き合いなんて自分には無理、と、やる前からあきらめてしまうのも悲しいことですから、最低限どうしたらいいかを心得ておきたいものです。

まず何よりも、違うことを前提とすることでしょう。

違うことというのは、先に書きました通り、言語の違い、社会の違い、歴史的背景の違いなど、違うことだらけだということです。私たちは日常、日本人 どうしであれば、同じことを前提にした言動をとっています。日ごろ接する相手のほとんど全員が日本人ですから、日本人として当たり前のことをすべて前提と して行動し、発言しています。ところが外国の人が相手だと、その前提が通じないということです。

どんなことが日本の当たり前で、その当たり前が世界に通用する常識なのか、通用しない常識なのか、そういったことを学ぼうという姿勢がまず必要になるのではないでしょうか。つまり、私たち日本人が、日本人自身のことを学ぶということです。

例えば、誰かが待ってくれているとき、日本人なら小走りに走るなどして、相手を待たせようとはしていないんだという態度を見せます。これは日本人と して当たり前のマナーでもあります。ところがこのマナーを、外国の人に要求するのが無理なこともあります。こっちが待っているのに、悠然と歩いてくる外国 人がいたとき、私たち日本人は、その外国人が無礼な人だと感じるかもしれません。腹を立てる人もいるでしょう。ところが当の本人には、失礼だとか無礼だと か思われるような行動をとっているつもりが全然ないのだとしたら、そこに文化の違いによる衝突が起こってしまうわけです。

以前筆者が教務主任を務めた日本語学校に、初めてバングラデシュからの学生が入ってきました。彼の態度というのも、日本人一般から見るととても変わって見えるものでした。

生活指導などでこちらが説明をして、理解できましたか?と問うと、彼は微笑んで首を横に振るんです。首を横に振るというのは、「理解できない」とい う意味だとしか思えないわけですが、彼のその意思表示は、「理解できました」という意味なんですね。でも日本での生活では、その首の振り方は通じません し、逆の意味にとられてしまいますから、大変かもしれないけど、首はたてに振るようにしてくださいと指導しなければなりません。

首を振るというのも、言葉の違い同様に、表現方法の違いです。同じ動作でも、文化によって意味が変わることがあるわけです。ですから、「それじゃあ意味がわからないよ!」といって腹を立てるわけにもいかないんですね。

様々な局面で効率を追求するのも、私たち日本人の当たり前ですから、首の振り方が変だという、非効率きわまる外国人に腹が立つこともあると思いま す。待たせているのに歩いてくる外国人にも、やはり腹が立つかもしれません。しかしそれでは外交問題に発展しかねませんから、腹を立てるのだけは、なんと しても我慢しなければなりません。

それよりも、そうした違いを知ることは、トリビアの泉のように、なんとも楽しいことでもありますから、違いを見つけてやろうという好奇心をもって、違うことを楽しむ姿勢があったら、外国人との付き合いは、とても楽しいものになるのではないでしょうか。

2008/11/9 日曜日

「相互理解」で理解すべきことは?

カテゴリー: 日本の近代史 — admin @ 1:49:03

日本は明治維新以降、西欧列強となんとか肩を並べようと必死でやってきました。それには江戸時代からの、公衆道徳や高い識字率が大いに役に立ってい て、明治になるよりも前からすでに、世界に誇れる社会を築いてきていたと見ることができると思います。いろんな面で、日本は優れた社会と個人から、強い国 家を建設するだけの強さをもっていたわけです。

もちろん同時に欠点も併せ持ってはいましたが、総じて強く、総じて様々な水準が高かったというのが私たちの日本です。

一番の強さは、何をやるにしても反省材料を得やすいよう、論理的判断を大事にすることかもしれません。単に場当たり的なその場しのぎの考え方は嫌っ て、ものの道理というものに長じることや、人から信頼される嘘のない生き方を尊ぶところは、他のどんな国にも負けない日本の美点ではないでしょうか。

そのように、確かな美点、間違いない強さというものを、大昔から日本人はもっていました。

アメリカでは、大震災などありますと、壊れた商店などから物を盗む人が大勢出て困るようですが、日本ではそのようなことはほとんどないといわれてい ます。自然災害を常に経験してきた智慧からの行動でしょうけれども、大きな被害が出ればみんなで助け合うというのが日本の当たり前です。

思えばこの「当たり前」が優れているとも言えるのかもしれません。その優れた「当たり前」については、日本の人々は特に口にするでもなく、また、それを法律とするでもなく、みんながわかっている暗黙の前提としてきたわけです。

ところが明治以降、台湾を植民地とし、朝鮮半島を併合し、また中国各地や南方の国々へも進出していって、文化も言葉も違い、「当たり前」も大きく異なる人々と一緒に暮らさなければならなくなりました。

来てくれといわれて行ったのではなくて、日本が一方的な「善意」や「策略」で出かけていったのですから、「郷に入っては郷に従え」といわれる通り、 アジア諸国それぞれの当たり前を学んでそれに合わせれば良かったんでしょうけれども、私たちの父祖は日本の「当たり前」こそが本当の当たり前であって、ア ジア諸国の人々の生き方や考え方には問題があると考えました。

当時の新聞を読んだり、雑誌や小説を読んだりすると、上記のことが事実であるとわかると思います。

まあ確かに、災害で助け合えるぐらいですから、日本の当たり前は優れていたのかもしれませんが、だからといって、外国の人々を軍隊で支配したよそ者 が、町のあちこちで現地の人々に「馬鹿野郎!」と怒鳴りつけて良いはずもありません。それより先にやるべきことがあったはずです。

やるべきこととはつまり、まずは説明することだと思います。どうしてそれがいけないことか、どうしてそうするのが正しいか、良い悪いの基準はどこに あるかといった、日本人の美点を外国人にもわかるよう論理的に体系化して学問とし、法律とすることでしょう。何よりもまず、それがしっかりできていなけれ ば、現地の人々をいきなり叱りつけるなんてことはできないはずだったんです。原則がどこにあるか、その原則に照らして、その行いはどう判断されるか、審判 されるか。そういった原則こそがなによりも重要で、原則の周知を徹底してこそ、支配者も被支配者も同じ原則で、共に納得して裁かれることも可能になるわけ です。

もちろん日本もそれをやったと、一部の歴史学者は主張するかもしれませんが、私たちの父祖がそんなに論理的な人たちだったとはちょっと思えません。 諸外国で現地の人々に嫌われたのは、一部の官憲などの権力者たちです。乱暴な物言いで、現地の人々をいたって低く見ていた日本人です。

いつの時代にも、文化の異なる外国人と付き合っていくには、互いの原則がどこにどうあるかを理解し合うことが必要です。「相互理解」と口で言うのは得意でも、いったい何を「理解」すべきなのか、実は全然わかっていないというのが常だったりします。

何を食べるか、どんな歌を歌うか、どんな家に住んでいるか・・・。もちろんそれも「理解」の対象かもしれませんが、共存していく上で必要な知識としては、どれも表面的なことでしかありません。

本当に必要な理解とは、どんなことを笑うか、どんなことに怒るか、どんなことを誇りにしているか、どんなことを恥と感じるかといった類の、民族や文化の根幹部分にある精神面の理解でしょう。それが理解できなければ、戦前から続く不幸な衝突がなくなることはないでしょう。

2008/11/2 日曜日

取り返しのつかぬ過ち 『オモチャ箱 シリーズ第3話 絵本1936年』

カテゴリー: 日本の近代史 — admin @ 10:17:34

まずこちらをご覧いただきたいと思います。

YouTube にある 『オモチャ箱 シリーズ第3話 絵本1936年』

昭和11年(1936年)J.O発声漫画の制作による『オモチャ箱 シリーズ第3話 絵本1936年』なる動画作品である。

見終わって暗澹たる気持ちに陥ったのは筆者だけではあるまい。

まず、作品の質において甚だ水準低し。企画、構成、キャラクターデザイン、アニメーション技術、声優に至るまで、作品それ自体としては見るべきものなしと判ぜられる。

しかしながらこれを8年後公開の昭和19年(1944年)『桃太郎 海の神兵』に至った国家的価値観の根源と見るならば、資料価値としてかくも得難き資料も比類なきものと得心せるものである。

いささか怪しい戦前調の文体はこれくらいにして、以下は普通に書くことにします。

南の島、これは『桃太郎 海の神兵』においても重要な舞台として使用された日本軍の占領地です。その地において、現地住民を意味する動物たちなどに、「日本文化」をもって歌や踊りを楽しむ風景が、さも当然のこととして展開します。

ここにこそ、私たち民族ならぬ私たち日本国の主権者がかつて到達した国家主義的思想に基づく疑いなき善意と、他民族・他文化にとって迷惑甚だしい人道主義を垣間見ることができるわけです。

国家主義、軍国主義という思想は、私たち日本人の生活や経験とは無縁のものであることに注意しなければなりません。さらに言えば、あらゆる「思想」が、人心を生活道徳から乖離させる元凶となりうる危険なものであることも認識をおくべきところでしょう。

かつて私たちの父たちや祖父たちは、その認識を持たなかったというのが事実であろうと考えるところです。そのような無意識、そのような「人道主義」によって、「思想」を尊きものと信じて疑わぬ少年たちを育成してきたことは、大日本帝国最大の過ちであったと見ることに異論はないはずです。

「大日本帝国」とは即ち、上記のように、私たちの素朴な心に、その生活とは無縁の価値観や慢心をもたらすための「思想」そのものであったともいえるのではないでしょうか。

戦後継続して行われてきた謝罪外交とは、かつての植民地支配や侵略といった、形式に対するものであってはならないと考えます。 形式や、行為そのものではなく、その行為・形式に至った「思想」こそが、異文化に生きる人々への迷惑の根源だったからです。

よりわかりやすい概念として、共産主義、社会主義、そして帝国主義といった思想は、問題が多すぎるために否定されているというのが、現代、世界の常識ですが、もし私たちの国において、日本の周辺諸国に対する優越感を自ら疑うことのない無意識的「思想」が生き続けているとすれば、私たちはそれを意識の表に引き出し、議論の俎上に載せて、真に有効な改善へと歩むべきではないでしょうか。

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